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差別の中身を解剖して、差別との付き合い方を考える

差別のニュースは日々絶えず報道され、技術が発達している現代ではAIのアルゴリズムによる差別やゲノム差別も注目対象となっている。

何を差別として定義するかも時代と共に進化している。なのでここでは差別を問題視し、具体的な差別行為を批判したりしない。

代わりに、感情を抜きに、差別という言葉がどのような現象を形容したいのか、および個人レベルでそれとどう付き合うかを考えてみた。


差別の種類

まずは一般的によく言われる差別の種類を並べてみよう。

人種、性別、LGBT、年齢、出身、学歴、職業、財産という市場分析にもよく使われる属性での差別から、知的障害、身体的障害、心理的な障害と言った一般的な基準から弱い能力を持っている人達への差別がある。

これらの差別は国際問題(ナチスやファシズム、コロナ時期のアジア人被害事件など)、または社会問題(派遣社員への差別待遇やインドのカースト制度の名残など)になる場合もあれば、ジェンダー役割など、日常生活の些細な言動に留まる場合もある。

人間以外の社会性生物を見てみる

では人間以外の社会で差別現象はあるのでしょうか

蟻や蜂、ハダカデバネズミの社会では、誰がどの役割で何をするかは生まれた時点で決められて、各個体は自分の本能に従って仕事をこなしている。側から見れば、本人の否応なしに一生うだつが上がらないような厳格な等級制度を持っている。差別が常態化されているように見えるのでしょう。
しかし、上位が下位を軽蔑したり、下位が不満不平を言うことがないでしょう。女王や子供の下敷きになる役割のハダカデバネズミはある日突然、自分が差別され鎮圧されているのだと掲げて集団で抗議することはないでしょう。強いて言えば、働き蜂が生育できない雄蜂を追い出すという、役割が果せないものを飯のタダ食いさせないように差別することはある

なぜ人類社会に差別的な現象が生じたのか?

人間と他の動物と大きく異なるのは抽象思考できるかどうか。人間は本能的に物事をカテゴライズして、各カテゴリーの特徴を捉えて認識する

この能力はとても先進的。だけど優勝劣敗の進化論のイデオロギーと受験勉強の制度が加わり、人は競争意識が生まれ、物事に優劣や等級、点数などを自然に付けがちになる。

AIのアルゴリズムによる差別はまさにこれを単刀直入に反映している。何も考えずにデータ学習させたら、意図していなくても、カテゴライズと点数付けで動かされるAIは差別的な結論に至りやすい。

私達人間の場合、他人の個体性よりも抽象されたグループの共通特徴で他人を認識し、他グループの人を信仰(宗教)や能力(学歴)、強いては健康度(障害者)や清潔度(カースト)などの軸でカテゴライズし、優劣や点数を付けて、感情を加味すると差別は避けて通れない。
※この考えが正しかったら、点数付けず競争意識を強化しない教育(シュタイナー教育など)を脳が完全に発達し終わった20代前半まで受けてきたら差別的な態度が薄いのかもしれない。
また、個人間の競争はなく、能力も知識も含め全部が共有されるものだという文化を持つプナンにおいては差別は存在しないでしょう。

カテゴライズ能力 X 点数付け X 感情 = ?

自グループより「劣っている者」に対して、厄介や不気味などの負の感情があると、悪意的な差別態度になり、憐れや切ないなどの同情する感情があると、慈悲的差別になる可能性がある。
(慈悲的差別とは:電車でお年寄りに席を譲る、レディーファースト、お子さん持ちの社員を早めに帰らせるなど、一見利他的な行為ですが、背後には文化的な先入観が見えるので、受け手がそれを望まない時に、差別された気持ちになる場合がある。第三者から評価すれば、それは慈悲的差別になる)

自グループより「優れている者」に対して、嫌悪感などの負の感情があると、やや反社会的または革命的な態度になり、感心や感動などの情熱的な感情があると、極端にいうと偶像崇拝や権威バイアスになるのでしょう。

また、例え感情が加わっていなくても、単に、「ユダヤ人だからお金に強いですね」「九州の人だからお酒に強いですね」というのも、本人から聞こえると話し手が自分を知ろうとせずに、定義しようとしているようなニュアンスがあり、繊細な人でしたら差別される気持ちになるのでしょう。

差別は埋め込められた認知バグ?

人間は世界を認識する際、まずはカテゴリーから認識し、物事に良し悪しを付ける運命を避けられないのであれば、差別は埋め込められた認知バグになるのでしょう。意識しないと誰もが程度の差こそあり、多少差別の罠に陥る。

おまけに誰かを差別している場合、私達自身は認識しづらいケースも多い。例えば上述した国際問題を引き起こした当事者達は、当時は正義を果たしているような認識を持っていた。仲間のため、人類のためのヒーロー感が存在していた。

それでは、差別的な認識にはメリット皆無でしょうか?

そう断言できない。

とある研究では、数学テストの際、女性だと意識させられると点数が悪くなり、アジア人だと意識させられると点数が高くなるという結果があるらしい(Shih et al., 1999)。

このように、差別的既成概念をただのツールとして利用する場合、良い結果を出せる場合もある

ただし、既成概念に囚われてツールとして見られない場合、マトリックスの青い薬を飲んだように、見える世界が限定される。

青ではなく、赤い薬を飲みたいのなら、続きをお読みください。

差別とどう付き合ったらいいのでしょうか?

解決方法は一通りではない。考えたい人は自分のオリジナルな答えを出せるのでしょう。

まず、自分が他人を差別しないようにどうすればいいか?

カテゴリー認知は無意義的に行なっているので差別に気付きにくいのであれば、意識的にカテゴリー思考を行うといいのでしょう。

目の前の人の性別や年齢、職業、学歴などを知った時、自分がそのグループに対して、潜在意識でどのような認識と感情を持っているかを自覚すること。本人はそれ以上の存在であることを忘れないようにすると良いのでしょう。そして、異なるカテゴリに属する人と本音で平等に話し合える関係を積極的に作っていくのもいいでしょう。

また、商品を作るために、知らない人にインタビューした人なら共感があるかもしれませんが、自分の想定と真実は往々にして乖離がある。物事や人を細かいレベルまでイメージしていない発想ほど、その乖離が大きい。差別的な観点もざっくりなカテゴライズからの想定に由来し、細かく理解すればするほどなくなると考える。それでまず心の持ち方を正すために、自分の観点は大雑把なイメージからの発想か、それとも相手の文化、経歴、体質、仕事、知識体系、日々の生活と感情などを細かく知ったことからなのかを自分に問うといい。行動的に、普段は自分と異なる歴史や他文化に馴染んでおくと、自分の既成概念が自然と薄められるのでしょう(葉っぱを見えているのか森を見ているのかという着目点を変える)。

次に、自分が差別されていると感じる時

直感に反しますが、自分が差別されるのを当たり前と思うこと。

人は不正待遇されたと思ったり、馬鹿にされたり、劣等感持ったりすると、守りの姿勢に入り、逆に相手を差別するようになる。
差別は人間固有の認知方法に由来したものだと考え、双方に認知のブラックホールがあるとイメージしたら、理解が働いて、相手を敵に回さず、自分がどうすべきかを冷静に考えられるのでしょう。

そもそも論 -差別の根幹にある 「自分」という概念

差別は自己認識(自グループ認識)と他己認識(他グループからの認識)のずれが根幹にあるが、「自分という概念は元々存在しない、自己像は他者との関わりで作り上げている」というスタンフォード大学の社会心理学研究者の著書は興味深い。

微力でありながら、私達は自分が所属する団体と関わって、団体の文化に影響を与えている。またその文化が私達の自己概念や世界像を作っている。差別を自己達成的予言にさせないように他人にどう接したらいいかを考えさせられる内容があり、読みがいがある一冊です(現時点では英語版のみらしいですが)

※スタンフォード大学も社会心理学研究者の二つのキーワードはバイアスのスイッチオンにもなるので、誰が書いたよりも、その内容の価値を自分達で見てみましょう〜


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