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【書評】『往復書簡 初恋と不倫』坂元裕二

”ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います。
悲しみはいつか川になって、川はどれもつながっていて、流れていって、流れ込んでいく。悲しみの川は、より深い悲しみの海に流れ込む。”

誰かの身に起こった悲劇が、苦痛が、あるいは怒りが、どうして自分の身に起らないと言い切れるのか。ぼくにはわからない。そんなものを想像してしまう度に、ぼくに耐えようのない恐怖が襲う。

『往復書簡 初恋と不倫』に収められている2篇はメッセージのやりとりを通して物語が進められていく。地の文はない。全くの会話のみ。

そしてタイトルの初恋と不倫から想像できるような甘く、ドロドロとした人間模様とは一線を画す。

『不帰の初恋、海老名SA』では学舎で透明な存在として扱われている少年の恋が不穏な深夜バスでの事故につながっていき、『カラシニコフ不倫海峡』はアフリカの地雷除去の話へ移り変わっていく。

この2篇に共通して与えられているのは「この世界の痛みはつながっている」というテーゼだ。

深夜バスの事故やアフリカの地雷で命を落としてしまう少女。

その2つが初恋と不倫に綺麗に組み合わされ、それはもう極上の逸品に仕上がっている。

また、著者である坂元裕二さんの作品には、一貫して社会問題が取り扱われている。震災、貧困、いじめ。苦しいほどの過剰な負の描写。

物語はあくまで想像の世界、綺麗に取り繕うこともできるはずなのに、なぜ絶望が描かれるのだろうか。

遠くの国で起きたなん理不尽な死のことなんて、きっとぼくたちは自分の身に起こるはずがないなんて思ってる。

身近にある貧困や差別ですら、見えてはいるけれどどこか他人事だ。

けれど、その誰かの痛みが、坂本作品では坦々とした日常の中で描かれる。昼休みに公園で食べるお弁当の話、自分の友人の面白い話、明日にでも忘れてしまうような会話の中にその痛みは紛れ込む。

その自分の日常と他人の痛みがリンクする事によって、ぼくたちはどうしてもこの世界の痛みがすべてつながっていると感じざるをえないのだ。


それでも坂元作品は、決して”痛み”を絶望で終わらせない。きちんと希望が残されている。

だからぼくは坂元作品が好きだ。昇っていく太陽のきらめくような明るさではなく、何も見えない暗闇の中で不安定な光を打ち出す外灯のような作品とでも言うのだろうか。

冒頭、なぜ物語で絶望を描くのか、と問いを浮かべた。きっとその問の答えは、日常が続いていってしまうからだと思う。

どんな悲劇が起きたとしても、悲しみはそこで終わることはなく、絶妙な輪郭を残して日常はつづいていく。

そのどうしようもなさに対抗する手段として坂元作品の中では2つ希望が与えられる。

1つ目は美味しいものを食べること、そして、2つ目は大切な人とコミュニケーションをとること

本作で言えば海老名サービスエリアの醤油ラーメンや、新潟の定食屋みかげのブリの照り焼き定食、そして初恋と不倫の相手とのメッセージのやりとり。

『カルテット』の泣きながらカツ丼を食べるシーンや、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』のファミレスで違った味のハンバーグを半分こしながら話すシーンはその代表とも言えよう。

ぼくたちの世界でいとも簡単に訪れる日常に溢れる些細なものが、その輪郭を溶かし、絶望が続いていく毎日の中でのちょっとした甘味料であることを伝えてくれる。

たしかにぼく自身の経験に即して言えば、水曜日に食べるアイスとか、友人とのくだらない会話は、ほんの僅かだけれど、毎日の希望になっている気がする。

『往復書簡 初恋と不倫』は傑作だ。

坂元作品の醍醐味である、日常と絶望、噛み合わない会話、誰かとの食事。その一つ一つがどれも物語を色づかせる要素が含まれている。

そして坂元裕二さんの作る作品もまた、ぼくが生きていくための、ささいな希望になっていることに間違いはない。


最後にちょっとだけ中身をお伝えすると、
”You Tubeで、「ハリネズミ お風呂」で検索してみてください。”
という台詞がある。

実際に検索してみてほしい。
もしかすると、あなたの希望になりうるものかもしれないから。

2020/02/24

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