美術作品展で思ったこと。
美術学校の作品展にお呼ばれして、ゲスト審査員という大役を果たしてきた。校内選考を通過した約30点の作品の中から各審査員が2作品を選び、グランプリと優秀賞を決めるという仕組み。久々に心から悩んだ。吐きそうだった。作品に甲乙をつけねばならないという審査員としての重圧。これはなかなか厳しい戦いだ。なぜなら全部いいからだ。全部いい。以上。これで終われば世話はない。でもどうしたってそれは作品に対する一定の評価をするということも教育の一環でありましてーあーでこーでということで私はしみじみ時間の許す限り作品に触れて甲と乙をつけさせていただいた。でも全部いいんだ本当に。
なぜ全部いいのかといえば、それはそこにあるからであって、そこにない作品というのは完成に至らなかったということなわけで、そこにあるということはすなわち完成だ。完成までの道のりを歩き切ったからこそ、そこにある。だから、そこにあるだけでいいのだ。最後まで作り上げることができたということの奇跡を味わった価値の方がよっぽど有益なので、作品の質とかコンセプトとかスキルとか、そういうことで評定することがとっても辛い。でも選んだ。私は選びました。「そこまでやったんかい」賞と「でかい」賞と私は勝手に名付けました。
「そこまでやったんかい」賞は、練り香水のパッケージデザイン。パッケージや容器、ポスターやキャッチコピーにこだわって作っていて最初見た時は(広告っぽいなぁ)と思って、ふーん、へー、みたいな顔で拝見していたのだけど、何とその容器の中にマジの練り香水が入っていて、しかもその香水から作ったという。それも12種類。1年分。毎月1つ違う香り。頭どうかしてる。「そこまでやったんかい」と思わず言ってしまったので、もうこれは推すしかないと思った作品。
もうひとつはコラージュ作品。若者の鬱積した気持ち、時代に対するアンチテーゼ、みたいなコンセプトがキャプションに書いてあったような気がするけれど、そんな広告的なことを一撃で蹴散らしたのが、そのコラージュ作品のサイズ。でかい。アホみたいにでかいコラージュ。こいつも頭どうかしてる。でかいは正義。圧倒的サイズの前にコンセプトとかそういうのは無効化してしまう実例だった。「でかい」、それでいいのだ。
あと残念ながら賞には至らなかったけれど、賞レースを対岸からクールに眺めているような作品がひとつあって、タイトルは忘れてしまったけれど、ブラウン管のテレビがどどんと置かれ、大雑把に配線され、パソコンとつながれていて、妙なパンクロック(オリジナル)がガンガンに流れている、という装置。映像作品とも違う、何かしらの装置が置かれていて、こいつも頭どうかしてるなと思った。配線のぐちゃぐちゃっぷりに途方もない物語を感じる作品。こういうパンクな作品が受賞というひなたに飛び出すことの格好悪さみたいなものもあるよなと思って票は投じなかった。ただそこにあるだけの、唐突に世の中に生み落とされたような存在感が格好良かった。
グランプリはセルフポートレートをフィルムカメラで撮影した作品。目にした瞬間に(これがグランプリだろうな)と思わせるだけの圧倒的な仕上がりだった。コンセプチュアルだし、手間暇かけている。もうこれはプロの仕業じゃないかと。デザイン系の仕事に就職が決まったという制作者はあっという間に即戦力として現場を飛び回るのだろうなぁ、と思ったら、やっぱりプロじゃねぇか……ってなって票を投じることに躊躇してしまったのも事実。作り込まれすぎているところに遊びを感じられたら印象も違ったかもしれない。陽明門の柱のような遊びがあれば。
刺激的な時間でした。全部良かった。気になったのは、多くを語ろうとしてくる学生が結構いたことだ。プレゼンでも、キャプションやキャッチコピーでも。「この作品のコンセプトはー」みたいな。見る人は推し量る。だいたいの見当をつける。それがアートの良いところでもある。
とにかく選ばれなかったからって腐る必要はまったくない。ここに出てきた時点で評価に値する作品だし、選ばれるか選ばれないかなんて運だ。後は野となれ山となれという気持ちで次の作品を作り、その次を作り、ずっと作り続けるよりほかない。そんなような言葉を最後に残して会場を後にした。この言葉、まんま自分に言って聞かせねばならない。ちなみに審査員としてご一緒したデザイナーさんは、10年前にこの学校で授業を担当させてもらった時の教え子だった。こういう再会があるから教育は熱く続くのだろうか。
明日も何かを書きます。
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