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ラピュタ、若しくはデスクリムゾンの島を訪れる。或いは阿呆の本州制覇記~紀州路編~

 皆様こんにちは、或いは初めまして。
 ジョーエツクアッカと申します。
 noteを始めて早三年、その間に書いた記事は最初の一週間で4つ、実質3つ。以上!!三日坊主を地でいきました。令和の三日坊主アワードは頂きましたね。
 
 や っ た ぜ ☆
 ……やってないですね、反省します。

 さて、せっかくアカウントがあるのに活用しないというのは女々、褒められることではありません。ちょうどこの前、旅をしてきたばかりなので、せっかくなので旅行記でも書くとしましょう。
 書こうという気力があるうちに書くのが大切ですからね。皆様に存在を忘れられても悲しいものです。(あ、そもそも覚えてない?)

 ということで、今回の旅の舞台は紀伊半島の東西、和歌山県と三重県です。私、行ったことのない都道府県というのがありまして、和歌山・三重・高知・大分・宮崎・鹿児島の6県なんです。そうなると、制覇していこうとなるのは道理。ちょうど少し暇ができたので、まずは本州を片付けていこうとなるのは当然というものですね。
 今回の旅行記ですが、3回に分けてお送りしようと思います。
 やり切れるかな?やりきるしかありません。
 というわけで、今回は醤油と梅干と黒潮の地、紀州路編です。

紀州路編

紀州をめざす

 おはようございます。というわけで、本州制覇旅を始めます。旅の始まりは関東が誇る大都会、ジャパニーズ首都の東京です。
 まず目指すは、表題の通り紀州・和歌山です。
 さて、皆さんは東京から和歌山を目指すとしたらどう行くでしょうか?
 新幹線を使って、新大阪から特急「くろしお」?それとも、南海特急「サザン」?
 しかしそれは、王道が過ぎます。
 令和の三日坊主レコードホルダーたるもの、もっと覇道を行かなくてはなりません。
 というわけで、関西国際空港を目指します。

フランス国旗に似た京急羽田空第1・第2ターミナル駅の案内図

 東京から関西空港を目指すとする場合、使うのは成田空港(新東京国際空港)か東京国際空港(羽田空港)でしょう。
 今回は羽田空港から関西国際空港、KIXをめざします。
 時刻は朝の6時を少し回ったところ。良い子はいまだお布団の中ですが、私は悪い子なのでモーマンタイですね。
 フライトはANA93便 HND 7:25⇒KIX 8:40の便です。
 航空機に乗るのは久々ですので、早めに着いておくに越したことはありません。だいたい皆さんは出発時刻の何分前に空港に着いているんですかね?
 さて、保安検査を無事に終えて搭乗口を目指します。搭乗ゲートは506、きょろきょろと搭乗口を探します。

 どうやら、506搭乗口はバスに乗って搭乗するタイプのようです。最近はボーディングブリッジを使うフライトばかりでしたから、たまにはパッセンジャーステップを使っての搭乗も良いものですね。

バスターミナルにも似た、バスラウンジ

 ちょっと早く着きすぎたかな?とも思いましたが、そんなことはありません。久々の空港・フライトに胸の高鳴りを抑えきれません。(;゚∀゚)=3ハァハァ
 そうこうしているうちに搭乗開始のお時間です。
 それにしても、たまには良いものですなんて言いましたが、やっぱりボーディングブリッジの方が楽ですね。まぁ、数限られているボーディングブリッジを、そんなにユーザーもいないであろう関空線に使うのは無駄というものでしょうし、仕方ないですね。
 バスに乗り込み、飛行機を目指します。

エアポートリムジン

 バスに揺られること数刻。ここは……?
 てっきり、パッセンジャーステップに乗って搭乗するのかと思いましたが、どうやら違いますね。なんだこの建物は?
 後で調べてみると、どうやらこれはボーディングステーション(BS)というようですね。東京五輪に合わせて2018年に供用開始したもので、訪日旅客増加を見越してのもののようですね。
 2018年は、まだTOKYO2020が心待ちにされていましたね。その2年後にまさかあんなコロ助が世界を席巻するとは……誰も思ってなかったでしょうね。なんとも悲しいものです。
 まぁ、それが今有効活用されているのなら良いことです。

 気持ちはPS、気分はBB、しかるに実はBS。
 ということで搭乗します。搭乗機はエアバス A320です。

BS 写真を撮るにはちょっと向いてないかな?
バックモニター付き 国際線仕様

 バックモニター付きの国際線仕様ですね。久々にバックモニター付きのシップに乗りました。やはり、バックモニター付きは良いですね。心が躍ります。
 HND⇒KIX線となると、やっぱりメインはトランジットなんでしょうか。海外の方が随分と見受けられます。
 まさか全員KIXから和歌山を目指すわけでもないでしょう。
 和歌山にインバウンドが殺到しているなんて話は聞きません。反捕鯨家が殺到していたみたいな話は聞いたことがありますが。

 どんな番組があるのかしら~、なんてバックモニターを弄っていたら、気づいたら飛行機が動き出していました。

東京国際空港の秘密基地 ボーディングステーション

 こうやって見ると、ホントに陸の孤島ですね、ボーディングステーション。どうやら、503・504・506スポットにあるみたいです。
 皆様もHNDを使う際には、ちょっと気にしてみると楽しいかもしれませんね。
 どうやらこの便はD滑走路から離陸するようです。506スポットからだと少し遠いですが、その分いろいろ見られて楽しいものです。空港というのは広いもので、フライトデッキから見れる景色というのは意外と限られたものですから、こういう移動の時に見られる景色というのはココロオドルものです。

 どうも混雑しているようで、離陸が少し遅れています。
 さすがは日本が誇る空港、羽田空港です。窓の外を見ると、まだまだ飛行機が詰まっています。
 思えば、東京という街が全国全世界にアクセスできるのは、この空路と鉄路の存在が大きいでしょう。便利ですが、そのために人が集まり過ぎている気もします。なかなか難しいものですね。

 少し待つと、いよいよ離陸の順番が回ってきました。
 エンジンの声が高くなり、身体を椅子に押し付けるGを全身で感じます。フライトで一番心高ぶる瞬間というのが離陸の瞬間です。
 恍惚に身を委ねます。

 A320は機体を傾け、西を目指します。
 空路的には、伊豆半島をパスし静岡・愛知の上空を超え、紀伊半島上空から海に出てKIXにアプローチするようですね。
 
 ANAの空の旅のお供と言えば、翼の王国とコンソメスープです。
 コンソメスープを片手に翼の王国を流し読みします。風情はないですが、フライト気分は抜群です。しかも、今回の翼の王国の舞台は和歌山、私のためにあるようなものです。

空カラ静岡、御前崎ヲ望ム

 窓から眺めると、眼下には静岡御前崎が見えてきました。伊豆半島と並んで静岡県の特徴的な形を形作っています。鉄道や高速はもう少し内陸寄りの菊川を経由しますから、御前崎方面ってあんまり行くことないですね。
 どうせなら今度行ってみますかね。
 浜松・豊橋・知多半島を超え、紀伊半島にかかり、眼下には英虞湾、伊勢志摩の風光明媚なリアス式海岸が広がります。

 紀伊半島をパスして、機体は北を向きます。
 いよいよKIXへのアプローチです。
 こうして乗ってみると、KIXというのは結構南にあるのですね。殆ど和歌山国際空港ですね。まぁ、成田国際空港よりは近いので、東日本の人間がどうこう言えたもんじゃないですが……。
 さて、いよいよ着陸というところで、とんでもないことに気づいてしまいました。このシップ、機外カメラが付いています。
 どうやらフライトの映像をバックモニターで楽しめるみたいですね。
 ……どーしてもっと早く気付かなかったのでしょう。
 そんな阿呆を乗せて、A320はKIXに無事に着陸します。

 初の関西国際空港です。せっかくの国際空港なのに、国内線で到着というのはなんだかアレですが、まぁ、せっかくの天下の関西国際空港です。楽しみたいところです。
 ……が、今日の舞台は和歌山です。
 次は陸路、鉄道を使って南を目指します。

ミャクミャクさまが迎える関西国際空港
万博ももうそろそろですね
里中満智子先生のイラスト
里中満智子先生に絵はよくわかります

陸路で南を目指す

 ということで、これからは鉄路を使って南へ。
 紀州制覇を目指します。

 ということで、鉄路の始まりはこちら、関西国際空港駅です。
 関西国際空港駅は地下にあるわけではないんですね。成田空港や羽田空港に慣れていると少し意外ですが、とてもいいですね。やはり地下よりも地上の方が良いものです。

関西国際空港駅に貼られた和歌山のポスター

 和歌山のポスターが、否応なく和歌山への熱を高めてくれます。
 スキップしながら改札にタッチ、ホームへと躍り出ます。
 使うのは、JR西日本の関西国際空港と阪和線です。

 ホームに出ると、西日本が誇る空港連絡特急、281系特急「はるか10号」が大阪・京都へと観光客をいざなっています。
 この特急に乗って一本早い紀州路快速に乗るのも良いのですが、まぁ、急ぐ旅でもないので、ここは見送ります。
 次に関西を訪ねるときは、「はるか」を使うのも良いかもしれませんね。
 ふと横を見ると、モントルー・オーベルワン・ベルノワ鉄道の「ゴールデンパス・エクスプレス」ラッピングの南海50000系特急「ラピート」が停まっています。

南海50000系 ラピート

 関西に来て早々に良いものに出会えました。
 ホクホクした心で、9:18発の関空快速天王寺行に乗り込みます。
 関西訛りの放送にほくそ笑んでみれば、自分は今西国にいるんだと感じられます。
 関西国際空港アクセス線のハイライトと言えば、関西空港と本土を結ぶ唯一の陸路、関西国際空港連絡橋(スカイゲートブリッジR)です。1994年一般供用開始の世界最長のトラス橋、JR西日本と南海が共用するなかな珍しい区間です。

 瀬戸大橋を渡った時も思いましたが、海を渡る橋というのは良いものです。この景色を肴にすれば、旅情も否応なしに高まるというもの。エクセレントが過ぎます。
 関西国際空港連絡橋を終え、数時間ぶりの本州の大地へ。りんくうタウンを越え、阪和線との乗換駅、日根野に到着します。

 関西の本丸、大阪・京都・神戸を目指すのならばこのまま乗り続けたいところですが、今から目指すのは日本の食文化の本丸、紀州和歌山です。
 乗ってきた関空快速も和歌山からの紀州路快速と連結して、一路北を目指します。
 さて、ここからがいよいよ本番です。阪和線を南に、和歌山を目指します。
 ……ところで、既に4000字を越えているんですが、大丈夫でしょうか

 9:35、京橋からの関空快速関西国際空港行/紀州路快速和歌山行が到着です。ここ日根野で関空快速と紀州路快速が分割し、それぞれ目的地を目指します。間違って乗り込まないようにしましょう。
 9:39、4両となった紀州路快速は和歌山を目指します。ちょろっと吹田総合車両所日根野支所を眺めてみれば、283系が泊まっています。

 特急「くろしお」「スーパーくろしお」「オーシャンアロー」が「くろしお」に統一された今となっては、イルカフェイスの283系も「くろしお」ですが、私なんかだと、やっぱり「オーシャンアロー」のイメージが強いですね。和歌山に入る前に、和歌山を感じられてしまいました。やっぱり、かっこいいですね。
 列車は長滝、新家を越え、9:47和泉砂川に到着です。ここでは、6分ほど停車し、後続の特急「くろしお3号」新大阪発白浜行の通過待ちを行います。

 287系か289系か……西日本の車両には明るくないので、この数秒の通過ではちょっとわかりませんね。結構好みの車両ということはわかります。ちなみに、日根野で、この紀州路快速ではなく「くろしお3号」に乗り換えると、10:05に和歌山に到着となり、この紀州路快速よりも10分程度早く到着します。余裕があるなら、「くろしお」に乗るのもありだったかもしれませんね。
 和泉砂川での特急退避を終え、紀州路快速はさらに南を目指します。和泉鳥取、山中渓、紀伊、六十谷、紀伊中ノ島を越え、10:15に終点の和歌山に到着です。

遂に念願の和歌山に上陸しました。和歌山、制覇です。

日根野~和歌山 お世話になった紀州路快速223系0番台

 紀州路快速の方は223系0番台だったんですね。223系というと2000番台新快速のイメージがありますが、0番台は0番台で阪和線という感じがしてとても良いですね。

和歌山駅 中央口駅舎「和歌山MIO」

 和歌山駅見物を楽しみ、時刻は10:30を回った頃。ちょっと早いですが、ご飯としましょう。なにせこの後は、島歩き。おまけに、今日は朝ごはんを食べていません。今のうちに食べておくが吉でしょう。
 というわけで、お昼ご飯、和歌山といったら和歌山ラーメンです。濃厚なスープに細麺が絡む和歌山が誇るご当地ラーメン、これを食わずにはいられません。
 向かうのは駅横の近鉄百貨店和歌山店のデパ地下にある、「清乃」です。

こってり和歌山ラーメン しらすごはん

 こってり和歌山ラーメンと、美味しそうだったのでしらすごはんをセレクトします。和歌山と言えば醤油、醤油にしらすごはんは間違いがありません。
 この和歌山ラーメン、熱々で旨いですね。激ウマです。天下一品が近いでしょうか。こってりしてますが、するすると入っていきます。こってりしたスープに細麺がよくなじみます。これは良いラーメンですね。
 しらすごはんも間違いがなく旨いですね。ラーメンライスというとラーメンスープをかけていただきたいところですが、そこはしらすごはんですので、醤油でいただきます。和歌山ラーメンとしらすごはんという、和歌山欲張りセットに舌鼓を打ち、今日和歌山に来れたことに喜びを感じます。
 いやぁ、良いご飯に出会えました。

和歌山城、そして加太を目指す

 さて、美味しいご飯でお腹も心も満たされたので、いよいよ今回の本命、友ヶ島を目指します。
 といっても、友ヶ島行きのフェリーの時間まではまだ時間があります。せっかくなので、和歌山城を見物するとしましょう。
 和歌山駅からバスに揺られ10分ほど、和歌山城に到着です。

 思ったよりも大きいですね。思わず圧倒されてしまいます。
 しかしよく考えれば、紀州藩といえば尾張・水戸に次ぐ徳川御三家、紀伊徳川家が座した国、かの暴れん坊将軍、徳川吉宗を輩出した国です。そりゃ壮麗な城があるのはおかしなことではないですね。
 和歌山城は虎伏山の山頂に座す平山城で、豊臣秀吉の異父弟豊臣秀長が天正13年(1585年)に築城、元和7年(1621年)に紀伊徳川家の祖徳川頼宜による大改修を経ているようです。豊臣秀長時代に当時「若山」と呼ばれていたこの地を「和歌山」を改めたとか。
 さて、そんな歴史ロマンあふれる和歌山城ですが、今の私には時間がありません。加太へのタイムリミットを考えると、和歌山城見物はせいぜい20分が関の山です。
 とりあえず天守を撮って今回は良しとしましょう。

和歌山城 大天守

 ……体力を持っていかれました。
 先にも書きましたが、和歌山城は虎伏山の山頂に座す城、天守まではそれなりに距離があります。
 これから島を駆けずり回る予定だというのに、思わぬところで体力を消費してしまいました。ウォーミングアップでウォームを越えて燃え上がりました。島に行く頃には灰になっているかもしれませんね。
 それにしても良い城です。和歌山城、これはしっかりと見たいですね。今後の宿題といたしましょう。
 また来るからな。

 さて、和歌山城に泣く泣く別れを告げてバスに乗ります。
 向かうは和歌山駅……ではなく、和歌山市駅です。
 和歌山市の主要駅というと、JR阪和線や紀勢線、和歌山電鐵が乗り入れる和歌山駅と、南海の大ターミナルでJR紀勢線も乗り入れる和歌山市駅があります。この辺、慣れてないとちょっと大変ですね。和歌山市駅の方行こうと思ったのに、和歌山駅行っちゃった、なんて観光客も多そうです。
 いよいよ加太を目指すわけですが、加太は南海加太線の終点駅ですから、まずは和歌山駅を目指すというわけですね。
 ということで、南海和歌山市駅に到着です。

 でかい駅ですね。関西圏といえば私鉄が強いといいますが、実感させられますね。なかなかスタイリッシュな駅なのも良いですね。
 さっそく、入場していきます。
 ところで、関西の私鉄さんも大半のところでICカードが使えるのは良いですね。交通系ICカードの利便性に慣れてしまうと、もう後には戻れませんね。

南海8300系

 ホームをふらふら見物してると、なにやら試運転をしています。どうやら南海8300系というというそうで、2015年から導入が進んでいるようですね。どうにも関西の私鉄というのは所縁が無く、よくわからないのですが、なかなかスタイリッシュでカッコいい車両を作っていますね。
 なるほど、人々が魅せられるわけです。
 さて、そうこうしていると隣のホームに電車がやってきました。難波を10:50に発車してきた南海特急「サザン15号」和歌山行です。

自由席(左)7100系 指定席(右)10000系

 これぞ南海特急です。南海特急といえば関空特急「ラピート」や高野山特急「こうや」などありますが、やはり本線特急「サザン」こそでしょう。個人的には、南海を代表する特急といえば「ラピート」と「サザン」のイメージがありますね。
 ところで、この半分4両は普通の車両、もう半分4両は指定席の特別車両という構成は、東国の人間にはなかなか新鮮です。東日本でこういう運用している会社ってありましたっけ?

 さて、そろそろ時間になってまいりました。
 加太線のホームに行くと、ちょうどいいタイミングで加太線の電車がやってきました。

南海加太線 2230系

 南海カラーの南海2230系、南海が誇る「ズームカー」の系列ですね。
 南海加太線、南海本線紀ノ川から西ノ庄、磯ノ浦を通って加太へ向かう全長9.6kmの小さな路線です。歴史は意外に古く、1912年に加太軽便鉄道が北島~加太を開業させたのが始まりで、1930年の電化を機に加太電気鉄道へ、1942年に南海鉄道に合併されました。その後戦時下での近鉄との政略結婚&離婚を経て今に至っています。戦時下統制というと東急のイメージが強いですけど、西だと近鉄なんですね。
 2014年には「加太線さかな線プロジェクト」が始まり、2016年から観光列車「めでたいでんしゃ」が運行開始されました。ちょうど和歌山市駅の側線にも止まって体を休めていました。

南海7100系 めでたいでんしゃ

 さて、そうこうしているうちに、11:56加太行の電車がモーターを唸らせて発車しました。紀ノ川を渡り、紀ノ川(駅)で南海本線と別れ進路を西へ。静かな地方都市といった眺めを颯爽と駆けていきます。東松江、中松江、八幡前、西ノ庄、二里ヶ浜、磯ノ浦と停車していき、そして終点の加太には12:20に到着します。

友ヶ島へ

 南海加太駅は、南海電鉄及び和歌山県最西端の駅であり、近畿及び本州の大手私鉄で最西端の駅となります。そうなると気になるのは最東端の駅ですが、どうやら京成電鉄の空港第2ビル駅のようですね。
 閑話休題。加太に話を戻します。

 藻狩り舟 沖漕ぎ来らし 妹が島 形見の浦に 鶴翔る見ゆ

 
加太は和歌山の最西端に位置し、古事記や日本書紀にも舞台として登場するほど歴史のある町です。万葉の時代から「形見の浦」と詠まれた景勝地であり、女性のための神様にして雛流しの神事で有名な淡嶋神社など、風光明媚と歴史ロマンにあふれた町となっています。古くより港町として栄え、美味しい魚介類に出会える漁業の町としての面だけでなく、奈良時代には役行者の修業の場、江戸時代には参勤交代の道としても栄えた、修験と交通の要衝なのです。
 と、紀州加太のHPに書いてありました。

 加太駅を降りると、なにやらアニメのパネルが飾ってあります。
 ジャンプアニメ、「サマータイムレンダ」のヒロイン、小舟潮ですね。どうらや、サマータムレンダの舞台、日都ヶ島のモデルがこれから向かう友ヶ島のようです。SFサスペンスとの事で、私はまだ未履修ですが、せっかくですので今度見てみるとしましょう。どうやら主人公の声は花江夏樹さんのようですし。
 今は、サマータムレンダよりデスクリムゾンです。

 さて、そうこうしているうちに12:30を回っていました。友ヶ島への船が出る加太港までは徒歩15~20分、次の船は13:00、あまり時間がありません。西へと歩みを進めます

 この道の狭さと曲がりくねった感じ。まさに田舎の港町といった心持です。こういう町は良いですね。非常に雰囲気があります。なんとなく佐渡に近いでしょうか。漁業の町というのは、どこか似たようなオーラを纏っているせいか、なんとなく懐かしさを感じます。
 海の町の懐かしさと初夏の日差しを浴びること15分、堤川に沿って歩き加太大橋が見えてきました。地図によると友ヶ島汽船乗り場はもうすぐのようです。

赤の美し加太大橋

 ……迷いました。友ヶ島汽船の乗り場がわかりません。
 え、マジでどこ?
 きょろきょろと見ていると、友ヶ島汽船駐車場の文字が。誘蛾灯に誘われる蛾のごとくふらふらと向かいますが、問題の船乗り場が見えません。
 上京したての田舎出女子大学生の如くオロオロしていると、駐車係のおじいさんが教えてくれました。なるほど、どうやら加太大橋の下に船乗り場があるようです。時刻は12:50、ちょっとヤバイですね。

 見つけました。ありがとうおじいさん、あんたは命の恩人だ。
 急ぎチケット売り場に向かい、友ヶ島への乗船券を購入します。大人往復2,200円、1船あたり定員先着100名様(みたい)です。
 友ヶ島へ向かう友ヶ島汽船、通常期は4往復、臨時便を含めて6往復の運航です。だいたいJR西日本の福塩線三次~府中と同じくらいですかね。通常便は、9:00、11:00、13:00、16:00の4便。今から乗ろうとしているのが13:00の便ですから、これを逃すと次の便は16:00の最終便、しかも帰りは16:30が最終便にして、友ヶ島に泊まれるところは1軒程度。実質、13:00の便が最終便みたいなところがありますね。
 まわりを見ると、カップルに大学生グループ、有閑マダムに地元のおっちゃん、果てはYoutuberと、結構な人が友ヶ島へ向かう船を待っています。
 どうらやラピュタの島、サマータームレンダの島という売り文句は結構な宣伝効果になっているようです。葛城修験のHPにも書いてあります。デスクリムゾンとSIREN2の島という謳い文句が入っていないのは残念ですね。

 いい感じの時間になりました。
 船に乗り込み、ついに友ヶ島を目指します。
 ところで、ただいまのスマホのバッテリー残量35%、モバイルバッテリーの手持ちはありません。……いささかの不安が脳裏をよぎりますが、まぁ、そんなことは紀淡海峡の青に不法投棄しておきます。

 加太大橋の姿が小さくなり、加太の町の景色も水平線の先の小粒になっていきます。
 陸地が遠く離れていく感じ、これぞ船旅です。友ヶ島への所要時間は20分です。
 乗船したのは友ヶ島汽船のフェリー「ともがしま」。晴天もあってか、そんなに揺れることもなく、「ともがしま」は紀淡海峡を西へ、友ヶ島を目指します。
 さて、この記事を書いた頭からずっと友ヶ島友ヶ島と呼んでいますが、友ヶ島というのは1つの島の固有名称を指すものではありません。沖ノ島、地ノ島、虎島、神島の4つの島の総称が友ヶ島なのです。霧島山みたいなものですね。
 この船が向かうのは、4つの中で最も大きく、友ヶ島砲台跡が残るラピュタ若しくはデスクリムゾンの島、沖ノ島です。
 そうこうしているうちに友ヶ島の島々が見えてきました。左手に見えるは葛城修験始まりの島、虎島です。

 葛城修験。和歌山~大阪~奈良に連なる葛城の峰々から始まった修験道にして、日本の修験道の始まりと言われています。その歴史は古く、7世紀の役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖としており、今では文化庁の日本遺産に認定されています。虎島はその役行者が開いた修業の場の一つ、葛城修験第一の霊場、妙法蓮華経序品第一の第一番経塚があり、葛城修験はここから始まるようです。ちなみに、友ヶ島全体でみると行場というのは5つあるようで、虎島の友ヶ島序品(じょほん)・観念窟、沖ノ島の深蛇池・閼伽井跡(あかいあと)、神島の神島剣池(かみしまつるぎのいけ)となっています。修験道というのはよくわかりませんが、艱難辛苦の末に悟りを開くものだったと理解しています。クソゲーも艱難辛苦を乗り越えた先に真理があるといいますから、キングオブクソゲー、デスクリムゾンのモデルに友ヶ島が選ばれるのは、むしろ道理というものなのかもしれませんね。
 さて、虎島、地ノ島、神島と見えて、遂に本命、沖ノ島に到着です。
 東京を7:25に飛び立って約6時間、この記事を書き始めてだいたい1万字……1万字⁉を越えて、ついに沖ノ島、友ヶ島に上陸です。

ラピュタ、若しくはデスクリムゾンの島を巡る

 さぁ、遂に到着しました。友ヶ島は沖ノ島に上陸です。
 スタジオジブリの傑作、「天空の城 ラピュタ」の島として名を馳せ、クソゲーマーにはかの有名な「デスクリムゾン」の島として、ジャンコミアニメファンには「サマータイムレンダ」、ホラーゲーマーにはSIREN2の島として有名な友ヶ島です。こうしてみると、結構アニメ・ゲームのモデルになっているのですね。
 友ヶ島をここまでのロマンあふれる島としている理由の一つは、ここ沖ノ島に残る旧陸軍の友ヶ島砲台跡でしょう。
 ここ友ヶ島は黒船来航の頃より大阪防衛の要衝とされ、江戸末期には友ヶ島奉行、その後明治を越え旧陸軍の由良要塞の一角として砲台・堡塁が整備されました。友ヶ島砲台は第1から第5までの砲台と虎島堡塁からなり由良要塞の主要要塞として、深山重砲兵連隊、由良要塞重砲兵連隊が運用してきたようです。太平洋戦争末期には大阪を司令部とする帝国陸軍第2総軍第15方面軍直轄の要塞となり、終戦を迎えたようです。
 先ほどからデスクリムゾンの島と連呼していますが、これもひとえに、デスクリムゾン伝説のOPで流れる実写映像が、ここ沖ノ島の砲台跡で撮影されたものであるからなんですね。
 というわけで、今回はこれら砲台跡を巡っていきます。まずは、一番近い第5砲台跡から巡っていきましょう。

非常に味のある旅館 友ヶ荘
友ヶ島で飲食品が手に入るのはここだけなので、しっかりと準備しておきましょう

 沖ノ島の港、野奈浦から西へと足を進めます。足を進めて早速思うのが、思ったより道が険しいということです。
 かつては陸軍要塞の島として一般人の立ち入りが制限された島。戦前の日本の道路事情なんてお察しですから、例え要塞島といえど道は言わずもがなです。もし今後友ヶ島を訪れたいと考えている方がいらっしゃいましたら、しっかりとした靴で訪問することをお勧めします。薄いスニーカーなんてで来た日には、足が何本あっても足りゃしません。
 そうしているうちに見えてくるのが、友ヶ島唯一の宿泊施設「海の家」です。

 なかなか洒落たいい感じのホテルです。インスタやFacebookをやっているようなので少し見てみましたが、大学生のサークル旅行とかで行くと楽しいかもしれませんね。無人島でBBQ……青春ですね。
 今回は砲台を見に行くのが目的なので、あったかもしれないこともない青春の妄想は後にして第5砲台を目指します。
 三叉路を左に、山へと分け入れば第5砲台跡が見えてきます。

友ヶ島砲台 第5砲台跡

 第5砲台は明治37年(1904年)に、第3・4砲台の死角となる野奈浦・北部エリア防衛のために為に建造された比較的新しい砲台です。明治37年というと日露戦争が始まった頃ですから、情勢の悪化に合わせて防備を増強した、といったところでしょうか。沖ノ島北部には兵舎、発電所、弾薬庫等の重要施設が集まっていたそうですから、防備を固めるのはむしろ当然といったところでしょうか。
 設置されていたのは、フランスはシュナイダー社製の斯加式十二糎速射加農砲が6門。他の砲台に比べると小さめの砲となっています。対艦というより、対上陸舟艇・部隊の砲台だったのですかね。
 ルート的にちょっと行きづらいからか、あまり人はいませんが、なかなかに広くて見ごたえのある砲台跡です。

 さて、山を下りてさらに西へ。熊崎、池尻浜に沿って歩きます。
 それにしても晴天で良かった。雨の中こんな島の中を歩き回るのは、少々厳しいものです。

それこそジブリの映画にでも出てきそうな風光明媚な景色が広がる

 さらに歩いていると、旅館の廃墟が見えてきます。

 富士屋別館、なかなか趣のある旅館です。
 かつては友ヶ島にも泊まれるところが数件あったらしく、ここもそのうちの一つでしょう。戦後、一般にも開放された友ヶ島はレジャーの島として開発が進んでいたそうですから、その名残でしょうか。
 やはり廃墟は良いものです、歴史を感じます。
 と、思って調べてみると、この富士屋別館、開館は2011年だとか。それっぽいブログの記事がありました。あんまり長続きしなかったのですかね。なかなか旅館経営というのは難しいですね……。本館の方は本土の方にあるのでしょうか。
 まぁいずれにせよ、実はそこまで古い建物じゃなかった説、濃厚ですね。とはいえ、歴史は流れていくもの。この廃墟がいずれは歴史的遺構となる日も、そう遠くはないでしょう。
 そんな歴史に思いを馳せてみれば、左手には修験の行場、深蛇池……ではなく、蛇ヶ池という別の沼が広がります。

深い色に染まる蛇ヶ池

 かつて猛威をふるった大蛇を役行者が沼に封じ込めたとか。その封じ込めた沼が深蛇池で、大蛇が住んでいたのがこの蛇ヶ池。ということで合っているのでしょうか……。正直よくわかりません。ちなみに深蛇池はもっと東側、神島のほうですね。
 しかしまぁ、なかなかの絶景が広がっているのでOKです。泳ぐのはちょっと躊躇いますが……。
 それにしても、これだけ蛇という地名があるということは、この辺は蛇多出地点なのでしょうか?いびせぇいびせぇ、さっさと第2砲台跡を目指しましょう。

友ヶ島砲台 第2砲台跡

 第5砲台跡から第2砲台跡へ向かう道中、遠くに見える淡路島に目を向けていると、なにやら建物の残骸が見えてきます。

遠くに見える淡路島 手前に見える残骸が第2砲台跡

 これこそが、友ヶ島第2砲台跡、これから向かう先です。
 友ヶ島砲台は、敵艦船との砲戦継続を目的とし榴弾砲が配置された「砲戦砲台」と、敵艦船を待ち伏せて射撃しカノン砲が設置された「要撃砲台」に大別されます。第3・4砲台が「砲戦砲台」、それ以外が「要撃砲台」となっています。
 第2砲台は要撃砲台、大阪湾に侵入する敵艦船を、対岸にある生石山砲台を始めとする由良要塞由良地区の砲台群と一体となり撃破することを目的として設置されました。竣工は明治31年(1898年)、設置されていたのは二十七糎加農砲が4門。三十口径なのか三十六口径なのかとかはちょっと分かりませんね。旧陸軍兵器にはどうも疎いものです……。

 近寄ってみてみると、これもなかなかに圧巻です。
 第2砲台は終戦後、アメリカ軍により爆破されており、左翼の第3・4砲座が半壊で残るのみとなっています。
 しかしながら、淡路島を捉えて由良要塞の全景を一望できる様は圧巻であり、海とのコラボレーションは昨今の映え文化にもマッチしているようで、友ヶ島砲台のなかでもなかなかの人気スポットとなっているようです。

 蒼天と蒼海に、森に呑まれる砲台跡。
 うぅ~ん、非常にそそります。これは良いですね。
 常に変化・開発が進む現代社会にあっては、こういう遺構はスグになくなってしまうもの。特に日本における戦争遺構となればなおのことです。戦後70年を超え、昭和の時代も歴史の彼方へと立ち去ろうかという今日この頃。今日のSNS文化に適応しつつ、このような近代遺構が在りし日の歴史を今に伝えてくれていると思うと、なんとも浪漫があって素敵です。
 訪れた価値もあるというものです。

 とか何とか言っているうちに時計を見ると、時刻はとうに14:00をまわっています。加太に帰る船は16:30、10分前には集合するよう厳命さていましたから、16:20には野奈浦には着いていないといけません。
 先を急ぎましょう。

友ヶ島砲台 第1砲台跡&友ヶ島灯台

 第2砲台に別れを告げて足を南へ。次に向かうのは第1砲台跡です。
 友ヶ島は小さな島とはいえ、歩くとなると結構疲れるもの。おまけに道は悪く山の中にも分け入るとなれば、結構体力を消費します。
 幸いにして第2砲台跡と第1砲台跡は比較的近めですので、さほど休憩を挟まずとも行きやすいのではないでしょうか。

 さて、こちらの第1砲台跡は海上保安庁の管理となっているため、普段は内部には入ることができません。しかし、この扉越しににも、明治から続いた砲台のロマンが感じられます。
 第1砲台ができたのは、明治23年(1890年)。紀淡海峡を眼下に収める場所に、友ヶ島一つ目の砲台として完成しました。設置されたのは、おそらく第2砲台と同じ二十七糎加農砲が4門、要撃砲台です。砲台の両翼に有蓋観測所が残されている点は、第1砲台跡の特筆すべき遺構と言えるでしょう。
 この第1砲台跡の隣には、現役バリバリの灯台、友ヶ島灯台が立っています。

 明治5年に竣工・点灯した海上保安庁の保存灯台。保存灯台というのは、現役灯台の中でも特に歴史的・文化的価値が高いものとして海上保安庁が処置した灯台です。
 非常に歴史ある重要な灯台ですが、この灯台、第1砲台とは切っても切れない関係にあります。
 というのも、灯台ができたのは明治5年。その当時、灯台は別の場所にありました。しかし、明治23年に第1砲台ができるとなると、砲撃の邪魔として現在の位置に移転することとなるのです。ジャイアニズムもこれここに極まれりといったところでしょう。おねショタ逆転劇は申し訳ないがNGです。
 第1砲台も役割を終え、平和な世の中となった今。友ヶ島灯台は海の安全を守るため、今日も静かな島で佇んでいるので……いや、結構うるさいですねこの島。

 文字だと伝わりませんが、この島、割と騒々しかったりします。
 まぁ、自然豊かな観光地となれば動物や木々、ちょっと知能をつけただけのエテ公の泣き声など色々な音がするもんですが、この島ではそれとはちょっと異なる音が割と頻繁に響きます。
 その正体はこちらです。

KIXへアプローチするPeach機

 そうですね、飛行機です。
 この飛行機たちは関西国際空港、朝私が降り立ったKIXへアプローチする飛行機たちです。どうやら友ヶ島はKIXへのアプローチ上にあるようで、結構頻繁に、大中小様々な飛行機が飛び交っています。
 かつては、‘友‘「TOMO」VOR/DME(TME 116.4MHz)と呼ばれる航空無線施設があったようで、令和の現代においては大阪の空の玄関の門番と言えるでしょう。なにかと、大阪とは縁が深い島ですね。ちなみにVOR/DMEというのは、超短波全方向式無線標識施設(VOR)距離測定装置(DME)を同時に設置したもので、ヴォルデメと呼ばれるそうです。詳しくはWikipediaか所沢航空記念発祥館でも行ってみてください。私には説明できるだけの能力がありません。 力が、欲しい。

友ヶ島 海軍聴音所跡

 さて、先に進みます。
 第1砲台跡の近くには、我が国の子午線135度線が走る最南端の地があるそうで、モニュメントもおかれているそうですが、当時の私はすっかり忘れていました。これは宿題ですね。
 というわけで、次に向かうのは旧海軍の聴音所跡です。ここまで陸軍が続きましたが、やはり海軍にも花を持たせねばなりません。ヒャッホウ楽しみだぜぃ。
 第1砲台・友ヶ島灯台に別れを告げて、今度は東を目指します。
 山を下り、孝助松海岸を眼下に収める広場、キャンプ場となっている場所で一息つきます。

 ふと見れば黄色い花々の先に蛇ヶ池が見えます。ぐるっと回ってきたようですね。なかなか綺麗な景色でまことに結構。歩いた甲斐もあるというものです。
 このキャンプ場となっているところも、要塞時代には海軍の兵舎が置かれていたようですね。
 まさに島に歴史あり、です。
 さて、疲れはとれませんが時間がありません。足を進めるとしましょう。

 さてこれから向かうのは旧海軍の聴音所跡、正式名称を「紀伊防備隊友ヶ島衛所」といい、大阪湾に侵入する潜水艦を24時間体制で監視し、有線式機雷をもって迎撃する。そんな施設だったようです。
 管轄は紀伊防備隊、帝国海軍大阪警備府隷下の組織で(合ってま)すね(?)。紀伊防備隊が設置されたのが昭和14年(1939年)ですから、陸軍砲台に比べると随分と後発です。
 まぁ、明治期に潜水艦はないですからね。
 こちらの防備隊も紀淡海峡の監視・防衛を任務としています。この島に来るとわかるのは、大阪に対する紀淡海峡の重要度の高さですね。大阪、さらい行けば瀬戸内は呉に繋がるのですから当たり前と言えば当たり前ですが、これらの施設群の存在こそが、紀淡海峡を抑えることが西日本防衛の大きな要であった証、といったところでしょうか。
 紀伊防備隊司令部跡は、現在は海上自衛隊阪神基地隷下の由良基地となっています。今なお、日本の海上防衛の要である事は変わりないようですね。
 
 ところで、ここまで歩いてきて聴音所を目指したことを少し後悔し始めました。遠い……。
 地図で見るとわかるのですが、この聴音所跡は砲台跡を巡るルートからはかなり離れた位置にあります。しかもあまり来る人もいないのか、獣道一歩手前といった感じの酷道となっています。
 かくて歩くこと数十分、見えてきました。大日本帝国海軍紀伊防備隊友ヶ島衛所跡です。

 これは素晴らしい……天才的です。諦めずに足を進めた甲斐がありました。山道を進んだ先にこんな素晴らしい廃墟があるとは……!
 人間、諦めなければ良いことがあると友ヶ島は教えてくれました。ありがとう、友ヶ島。
 感極まりながら、ぐるっと聴音所跡を眺めます。流石に、内装品の類は残っていませんが、それでも当時の雰囲気は感じられます。
 先の大戦においては潜水艦に辛酸を舐めさせられた日本ですから、現代の海上自衛隊は対潜能力に並々ならぬ心血を注いでいます。特に聴音探知は今も対潜水艦においては極めて重要なファクターです。この聴音所は、さしずめその先兵といった所でしょうか。
 思ったよりも小さな施設ですが、聴音施設となるとこんなもんだったのでしょうか。なかなか見ることのない施設に出会えて感激です。
 
 と、その時
 む、殺気‼‼‼

 振り返ると、小動物が木の上に登っていきました。狸か鼬でしょうか。リスにしては大きすぎた気がしましたね。
 コンバット越前でも現れたのかと思いましたが、そんなことは無くて安心しました。
 聴音所が閉鎖されて70年以上。そうそう人も訪れない場所とあっては、この地の主も山の動物たちに変わろうというものです。
 動物たちに敬意を表しつつ、時間もないので聴音所を後にしましょう。また来たいものです。
 というか、コイツいつも時間に追われてんな。

友ヶ島砲台 第3砲台跡

 聴音所へ続く隘路を越えて砲台巡りルートに合流、いよいよ大本命、第3砲台跡へ向かいます。
 第3砲台は友ヶ島砲台における最主力砲台であり、明治25年(1892年)に竣工、友ヶ島砲台群最大の対艦用二十八糎榴弾砲が8門設置された砲戦砲台です。360度全周射界を持つ砲座や独自の発電機、砲弾貯蔵庫や揚弾装置が存在したようで、その多くが今なお現存している、友ヶ島要塞最大の遺構にして最強の観光スポットでしょう。
 そしてなにより、この第3砲台跡でデスクリムゾン伝説のOP実写映像パートの多くが撮影されています。つまり、デスクリムゾンの聖地OF聖地のひとつなのです。
 小展望台をパスし、第3砲台跡を目指します。タカノス山展望台は……今回はパスです。想像以上に時間がありません。
 そうこうしているうちに妖しい建物が見えてきました。

 何だこの階段は⁉
 とにかく入ってみようぜぇ……

 なるほど、これが越前たちが入った階段ですね。
 (こんだけ言っといてなんですが)私、デスクリムゾンにはさほど明るくありません。そんな私にもわかるくらいですから、聖地巡礼レベルとしては非常にやり易いですね。聖地巡礼ビギナーにもおススメです。
 というわけで、私も入ってみましょう。

 あ゛っ、暗い‼
 この弾薬庫跡ですが、かなり暗いです。最近のカメラは優秀なのでかなり明るく見えますが、足元はほとんど見えないと思っていいかと思います。友ヶ島のHPでも懐中電灯を持ってくるように慫慂していますが、それは間違いないですね。
 足元に気をつけながら進んでいきまあああああああああああああ⁉
 危うく転びかけました。というのも、この写真の階段の先。通路になっているのですが、謎の出っ張りがあります。しかも足元を照らすものもなく、ほとんど見えないので、要注意トラップです。
 上からくるぞ‼気をつけろ‼ ならぬ 下からくるぞ‼気をつけろ‼
 怪我をしても困るので、警戒度MAXで進んでいきます。

 通路を越えて上がってみると、これが360度全周射界砲台跡ですね。ここに二十八糎榴弾砲が設置されていたのでしょうか。
 非常にロマンがありますね……
 この砲台の辺の景色は、特にラピュタ感がありますかね。ロボット兵とか出てきてもおかしくはなさそうですね。或いはデスビスノス。
 第3砲台は8門設置されていたとのことですから、この一つの区画に2門ずつ、それが4カ所という配備だったようですね。第1砲台の観測所から送られてきた情報を基に、第3砲台から二十八糎砲の雨嵐。なるほど、非常に要塞です。
 砲座の跡に歴史ロマンの香りを感じつつ、先へ進みます。
 そろそろこの狭い通路にも慣れてきましたが、慢心ダメ絶対。慎重に足を進め外へ出ます。
 階段を上がると、道がスロープ状の下りています。歩いてみると

 これまさに、友ヶ島砲台跡を代表する写真です。パンフレットなんかでもよく見る写真ですね。ここにも砲弾が保管されていたのでしょうか?
 イギリス式のレンガ積みと聞きましたが、美しいですね。確か富岡製糸場はフランス積みだったと記憶していますから、見比べてみても面白いかもしれませんね。
 もちろん、ここもデスクリムゾンOPにしっかりと使われてますね。
 みんな、聖地巡礼するくらいデスクリムゾンが好きなんだなぁ(しみじみ)。

 角を曲がると、視界が開けるとともに建物が見えてきます。
 よくよく案内を読むと将校宿舎跡と書かれています。なるほど、かつてはここにお将校様が寝泊まりしていたんですね。
 尉官や佐官の宿舎がこんなもんだったのかと思う反面、まぁ軍の施設だもんなぁ、とも思います。ここ友ヶ島砲台群は由良要塞の一角。由良要塞の司令部は淡路島に置かれていたわけですから、友ヶ島にそこまで偉い人が大勢いる、ってことはなかったのかもしれませんね。

 ところで、この案内看板の横にちょっと面白い看板が置いてあります。

 火災が発生すれば悲惨な事態を招く結果となります
 
まったくその通りであり、世の人類はもう少し火の恐ろしさを思い出すべきですが、そこではありません。
 和歌山北警察署、和歌山西消防署にならんで南海電気鉄道株式会社の文字。
 先にも書きましたが、戦後、友ヶ島は一般開放され開発が進みました。その開発を進めたのが、和歌山から加太まで私を連れてきてくれた南海グループ、その企業なのです。残念ながら2000年には最盛期の1/5まで落ち込んでしまった友ヶ島観光需要のあおりを受け、2002年に南海グループは友ヶ島観光事業から撤退してしましました。
 この看板こそ、在りし日の南海グループによる友ヶ島観光開発の遺構なのです。
 
 なーんてことを、記事を書いている今思っています。
 これを撮影した当時はそれどころではなく、体力の消耗に如何に抗うかだけを考えていました。
 時刻は15:30を回った頃。ほぼ2時間歩きっぱなしのツケが響いてきました。正直、ちょっと意識が飛んでいたまであります。
 残る砲台跡は1つ、沖ノ島東部に座す第4砲台です。
 (虎島堡塁は、虎島に立ち入りができなかったので今回は置いておくと致しまして……)

 第4砲台は他の4つの砲台と比べても、かなり距離があります。
 船の出航は16:20、余裕をもって10分前の16:10には野奈浦には戻っておきたいところです。
 タイムリミットはあと40分弱、意識朦朧、足は既に3回くらい攣っています。
 行くべきか、引くべきか。
 頭の中の木村中将が「帰ろう。帰ればまた来られるから」と警鐘を鳴らします。
 しかし、ここで思い出します。
 さっきの海軍聴音所跡で、私は何を学んだのだったか。諦めなければ、良いことがあるのだと。そう学んだのではなかったか。
 Alea jacta est. 賽は投げられました。
 いざ行かう、総力を挙げて第4砲台跡へ。

友ヶ島 第4砲台跡

 第3砲台跡を背に北へ、隘路を分け入ります。
 有閑マダムグループの横をするりと抜け、転ばぬように細心の注意を払いつつ急ぎます。
 探照灯跡に若干後ろ髪を惹かれつつ、山道を駆け行けば、野奈浦と垂水・第4砲台跡の分かれ道にたどり着きます。
 思ったよりも早くポイントに到着しました。ここを基準として、いよいよ第4砲台跡を目指します。タイムリミットは15:57としましょう。
 地図とにらめっこしつつ進めば、思ったよりも足を止めずに進めるものです。小展望台をパスすれば南垂水のキャンプ場へと続く分かれ道と三日月状の浜が見えてきます。
 あと少し、あと少しと自分を奮起すれば、遂に見えてきました。第4砲台跡です。

 時刻は15:55、ギリギリ間に合いました。 
 ほっと一息、息をついてふと上を見ると……まだ、上がありました。
 というより、第4砲台跡の本丸はさらに上です。
 さすがにもう無理です。頭の中の木村中将が今度こそ警鐘を鳴らします。おとなしく、帰りましょう。
 帰れば、また来られるから。
 さて、このように他の4砲台からはだいぶ距離を置いておかれた第4砲台。こちらは紀淡海峡というよりは、友ヶ島南方部から深山方面を防衛範囲として明治25年(1892年)に設置されました。第3砲台の補用といった役割を与えられていたようで、対艦用二十八糎榴弾砲が6門、十二糎加農砲が2門設置されていました。……この十二糎加農砲って、第5砲台のものと同じなんでしょうか?時代的はそうでもおかしくはなさそうですが……ちょっと分かりませんね。識者を求めましょう。
 しかしながら、明治37年(1904年)に対岸に田倉崎砲台が完成すると、友ヶ島東部海域の防衛の任は田倉崎砲台に移り、明治39年(1906年)には役割を終え、早々に廃止になってしまったようです。この田倉崎砲台も二十八糎榴弾砲6門を備える砲台だったようですね。
 しかし、そのおかげで米軍の破壊対象とならず、当時の要塞を今に伝えているのですから、世の中、何が功を奏するかわからないものです。

 そんなことを思う余裕は当時の私にはなく、とりあえず第4砲台を宿題として、野奈浦に足を取ります。今日だけでも、和歌山に宿題が増えてしまいましたね。
 行きはよいよい帰りは恐い、とは言いますが、行きも十分怖かったのでモーマンタイです。何度か足を攣りつつ、無事に野奈浦の港へ。時間は16:05を回っていました。

友ヶ島にサヨナラを

 思ったよりも早く野奈浦の港に着きました。2時間半、隘路を歩きっぱなしは流石に堪えます。船待つ数刻、とりあえず動けるように体力を回復しましょう。

 遠くに神島を眺めながら、友ヶ島に思いを馳せます。
 友ヶ島砲台群というと、航空機の時代たる先の大戦の折には役に立たなかった、などと書かれることも多い砲台です。
 しかしながら、この友ヶ島砲台群が設置されたのは明治の期、まだ航空機が戦闘に投入されることを予見していた人など、そうはいなかったでしょう。
 それにこの砲台が大阪防衛の一翼を担い続けたというのは、間違いのない事実でしょう。航空機の時代と言っても、対艦能力は持っておかなければなりません。現代の陸上自衛隊においても対艦部隊として、地対艦ミサイル連隊が配備されています。そう思えば、そうそういらない子などではなかった、むしろ重要な要塞だったのではないでしょうか。
 もちろん時代の流れの中で、その有用性は低下していったでしょうが、それをもってして、価値を否定するのはおかしな話です。
 そして何より、この要塞遺構が、紀淡海峡と大阪関西の重要な関係性を今に伝えてくれています。歴史とロマンに地政学。友ヶ島砲台は、友ヶ島は、あまりに多くの私に教えてくれているのです。

 そんな痛いポエムを思い描いていると、どうやら船が見えてきました。
 腰を上げて乗船準備をします。

ドクターヘリ緊急着陸場所

 そういえば、ここは無人島でしたね。ドクターヘリの緊急着陸場所も必要ですね。
 そんなことを思いながら、乗船待機の列へ。

野奈浦桟橋は絶賛架け替え工事中。完成は夏ごろのようですね。
帰りの船も「ともがしま」

 帰りの船も行きと同じく「ともがしま」でした。
 友ヶ島汽船には「ともがしま」の他に「ラピュタ」号があると聞いていたので、ぜひとも「ラピュタ」号にも乗船してみたかったのですが……残念です。
 乗船し船内へ。行きは外に出て写真撮影にいそしんでいましたが、さすがに疲れました。帰りは大人しく船内で休むとしましょう。

 ぼーっと外の景色を眺めていれば、さっきまでいた沖ノ島がどんどん小さくなっていきます。
 ドラマなんかだと、島を出る、ということが一大イベントとして描かれますが、なるほど、こういうことなのかとふと思ったりもします。大きなフェリーではなく小型の船のせいか、島影はどんどん遠くへと過ぎ去っていきます。虎島、地ノ島、神島と友ヶ島の島々が小さくなる中で、一抹の寂しさが心によぎります。
 たった3時間程度の訪問でしたが、友ヶ島は私の心にかけがえのないものをもたらしてくれたようです。
 ありがとう、友ヶ島。またいつか。

 そうこうしているうちに、「ともがしま」は紀州加太の港に入港しました。
 3時間ぶりの本州の土。
 デスクリムゾンの島、無事に制覇です。

和歌山へ

 さて、今回の旅のメインディッシュ、友ヶ島訪問は無事に完了しました。
 友ヶ島、想像以上に良い島です。古くは修験道、近代にあっては関西防衛の拠点、そして現代にあってはアニメ・ゲームの島。
 時代の変化に合わせて価値を変え輝き続ける島というのは、とても良いものです。
 また来たい。そう思わせてくれる素敵な島です。
 皆さんも、ぜひ一度は訪れてみては如何でしょうか。

 なーんて、いい感じで〆ようにも、まだまだ旅は続きます。そもそも、今回の旅の舞台は和歌山と三重です。メインディッシュ2日目はまだまだ続きます。
 が、とりあえず第1部はここで一旦〆るとしましょう。
 さすがに2万字を越えてしまいました。あんまり長くしすぎても良くはないですからね。続きは第2部、そして第3部に繋げていくとしましょう。

 ここまで、長い駄文を読んて下さり、本当に、本当にありがとうございました。
 こんなに長い文章を書くことは中々無いので、読みづらい点・お見苦しい点なども多々ありましたでしょうが、今後とも改善に努めていきますので、どうぞご容赦願います。
 
 それでは皆様、次は第2部、ひのとり編でお会いできる時を楽しみにしています。
 それでは、次回もよろしくお願いいたします。

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