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京都初のひとり呑み④ 最終日 京都人お勧めを食す | 下戸の酔いどれ放浪記

二泊三日の夢のような京都旅行も最終日。今日は伏見に行く予定である。幕末の志士に全く興味を示さないわたしの目指したものは平等院であった。幼い頃からずーとそれとはなしに見続けてきた10円玉に刻印されたその意匠をどうしてもこの目で確かめてみたかったのだ。

ポケットのなかにはメモが忍ばされている。メモには昨日呑み屋で知り合ったグルメなお兄さんから教えてもらったお勧めランチ2箇所が書かれているのだが、本当に時間をとって行けるかどうかは定かでない。マイレージで訪れた京都なので、帰りも飛行機に乗らなくてはならず夕刻の便に間に合うように京都駅から伊丹空港へとバスで移動しなくてはならないのだ。

ランチに時間を割くことを頭に入れず宇治の街をゆっくりと散策する。その後平等院や同じ施設内にある宝物館をじっくりと見学する。さらに宇治川の鵜飼の鵜たちを見学。現存最古の神社建築である宇治上神社まで足を伸ばし写真などを撮っていた。気がつくとあっという間に時間が過ぎていた。もう少しで午後3時になろうとしている。京都発の伊丹空港へのバスの時間を調べると一刻の猶予もないことがわかる。おすすめランチを食べるどころの話ではない。次の電車を逃したら一巻の終わり。わたしは慌てて走り出した。卒業旅行でゆっくりと観光を楽しんでいる学生たちのなかを、すごい形相で逆行するオヤジの、何とも無様な光景が展開するのであった。

電車到着の2分前に宇治駅についた。なんとかなりそうだ。わたしは行き先の看板を確認しつつ階段を駆け上り無事電車へと乗り込んだ。ほっと胸をなでおろす。その時点では、まだ自身のおバカな失策について気づいていなかった。一駅過ぎ、また一駅過ぎ、なんとなく行きに来た時の光景と違うような気がしてくる。車内アナウンスが耳に入ってきた。「・・・・終点奈良駅には16時・・・」。やってしまった。万事休す。わたしが飛び乗った電車は京都行きではなく逆方面の電車であったのだ。

母が生まれ育ったのは奈良の橿原、従兄弟など親戚も奈良市在住、子どものころは頻繁に奈良に行った。奈良贔屓ということもあり、「奈良」という言葉はわたしの頭のなかに絶対的な価値観として鎮座しているのであった。わたしは、宇治駅に着いたときの光景を追想してみた。一刻の猶予もないわたしは改札を走り抜けていた。どちら側のホームに行けばよいかと看板を探す。わたしの目の中に飛び込んできたのは、「奈良方面」と記された掲示板であった。わたしは心のなかで、「よし!」と大きく頷き、階段を勢いよく駆け上っていったのであった。「奈良」という文字にパブロフの犬のように反応するお馬鹿な自身の姿を確認するのであった。


“とんま”という星の下に生まれた自身の呪われた出生にひたすら苛立ちと絶望を覚えるのであった。このままだとわたしの帰りを心待ちしている認知症の母親に延泊を伝えなくてはならない。寂しさが募ると死んでしまう”うさぎ”の如く、寂しがり屋になってしまった母は発狂でもしかねないだろう。エライことになってしまった。マイレージで予約した便だけに時間変更はとても無理だろうと半ば諦めつつ、予約している便の時間変更が出来ないか、アプリを調べてみると、なんと予定時間の横に時間変更の小さなボタンが目に入る。あっさりと問題は解決され、幸運にも夜8時の最終便へと変更することが出来た。

再度、胸をなでおろすお馬鹿。次の駅で下車し逆側の電車に乗る。ふと我に返ると、時間に大きな余裕が出来たことを知った。これで昨晩教えてもらったお店にも行けるだろう。夕方だからランチは終わっているだろうが、寿司かお蕎麦だから夕方でもお店はやっているはずだ。

ある駅で電車が停車し多くの若者が乗車してきた。わたしの隣にも若い女性たちが座ってきた。徐に視線を車外に向けると赤い鳥居のようなものが遠くに映る。もしかしたら伏見稲荷ではないだろうか。わたしは思い切って隣の若い女性たちに声をかけ、ここは伏見稲荷の最寄り駅なのか、稲荷稲荷は駅からすぐ近くなのかと聞いてみた。女の子たちは、まさにここは伏見稲荷であり、いま見物してきたところだと云う。駅からすぐ近いから行ったほうが良いと逆に背中を押してくれた。

それで駆け足で伏見稲荷を参詣することにした。夥しい赤い鳥居がどこまでも続く光景に驚きながら、坂口安吾が伏見稲荷について書いていた以下の手記を思い起こした。

「伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることが出来ない。見るからに醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに如かざる」ものではなく、その在り方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。」

どこまでも続く赤い鳥居をくぐり抜けながら、なるほど「祈り」というものがこの日本人の心から消えてしまって久しいのだなと思った。確かにわたしの目の前にいる人たちも、誰一人この神社で本心から祈りを捧げようとする人はいないだろう。わたしもまさに同じである。わたしたち現代人にとって、ここは観光地のひとつの情景でしかないのだ。

「祈らざるを得ない」、そうした切迫した人生、苦しみに満ちた人生を知らない世代ばかりになってしまった。近代化、欧米化、さらにIT化が進み、お金があれば大方のものが解決する時代である。苦悩することを知らない現代人にとって、祈る必然性はどこにも存在しないのだろう。

先日たまたま1970年代前半の劇映画を見た。その劇中で当時20歳代だった李麗仙扮する女性が、突然自分の不幸を振り払うように必死に南無妙法蓮華経を唱えるシーンがあった。当時はまだぎりぎり”祈り”が生活のなかにあったのだ。しかしその映画のシーンを観ていた若い観客は思わず吹き出しいた。科学が何でも解決できる世の中になっていく、お金を積めばなんでも解決に至るような世界へと変容していく、そんななか、祈るという行為は、失笑を買うような行為へと転じてしまったのだろうか。

閑話休題。

さてもう夕刻になろうとしているが、昨日教えてもらったオススメの二店を探しにいく。昨日の晩に呑み屋で知り合った京都人は、わたしが東京人だと知りながらも、お勧めランチ2店として、わざわざ東京名物の、蕎麦屋と寿司屋を挙げてきたのであった。まるで京都人からの果たし状のようにも思ったのだが、紹介してくれた彼に底意地の悪さのようなものは感じらない。彼としては最良のものを紹介してくれたまでなのだろう。しかし正直、期待してはいなかった。寧ろ、期待から大きく外れ、とんだ結末になるのも一興ではないかといった心持ちであった。

京都駅から地下鉄で2つ目か、3つ目の駅をおり、地図の通りに道を進むが、なかなか場所を見つけられないでいる。夕方5時あたりの時間帯、行く手の方角から眩いばかりの西日が差し込んでくる。逆光のなかを進んでいくと、前方から新聞配達をしているチャリンコに乗った青年が現れたので、すかさず彼に地図を渡し方角を聞いてみたのだが、彼は暫くメモを見ていたが、首を捻り、わからないとわたしのそのメモを突き返すのであった。逆行で確認できなかった男の顔を別れ際にふと確認すると、なんと白人の青年であった。白人の新聞配達人を初めて見た。さすが京都と感嘆する。

かなり時間をかけて隈なく歩いたものの結局蕎麦屋なるものを見つけることが出来なかった。それで辛うじて見つけることができた寿司屋の暖簾をくぐることにした。古めかしい佇まいのお店だったが、東京にある寿司屋のイメージとは大きく異なっていた。中にはいるとカウンターが中心となっていて奥にはテーブル席もあるようだ。夕方早いということでお客さんは、わたし以外に一人ぐらいしかいなかったように記憶している。カウンター越しにふたりの職人が寿司を握っていた。※時期は昨年2020年3月下旬。コロナが騒がれていたものの、緊急事態宣言もなく、飲食店はまだ長閑であった。

寿司屋に慣れてないので結構一人だと緊張するものだ。カウンター越しでの寿司職人とのやり取りは少し気が重い。今回はどんな価格帯のお店なのかも把握できていない。しかしすぐに庶民的な空気を感じる。決して綺麗という感じのお店ではなかったし、女将のような存在もいなかった。東京の高級な寿司屋のようにピンと張り詰めたような空気は感じられず、構えることなくカウンターの席に座ることができた。庶民派のわたしにとっては嬉しい限りだ。

ランチは終わっているはずである。時間がないから「お好みで」というわけにはいかない。何かセットみたいなものがあればそれを頼もうかなと目に入ったメニューをとりあげると、なんと800円コースと1000円コースの2つのコースだけが示されていた。これはランチ用のメニューではないかと何度も確認したが、通常のメニューのようだ。余りにリーズナブルな価格帯にちょっと拍子抜けしてしまった。

店主と思しき方にこれから東京に帰らなくてはならないが、時間はかからないかと確認すると問題ないよと心地よい返事が返ってきたので、上の1,000円のほうを頼むことにした。お酒を頼んだのかは記憶にない。

暫く待つと三貫ずつの握りがカウンターのお皿に載せられていくのだが、あっという間にすべての寿司ネタが勢揃いした。その不揃いな姿を眼前に、わたしは心のなかで大きく笑うのであった。期待どおりの展開である。一番左側にあるお寿司はピサの斜塔なみに大きく傾いていて、なんとか姿勢を保っているところが何ともいじらしいのである。

見た目からして期待できないことはわかったが、食べてみれば、ネタもシャリも特段言及することは何も見つからなかった。スーパーやコンビニでのお寿司といった感じであろうか。ちょっと失礼かな。シャリの握りは全くもって緊張感に欠け、だらしないほどに…と解説してしまうと悪口だらけになってしまうので止めておこう。むしろこの値段でゆっくり食べれるのは嬉しいし、こうして話のネタになったことがなによりも嬉しい。店主も人がいいし。ふと気がつくと、一番左の傾いた寿司は、姿勢を保つことができず、ゴロっと転倒していた。

昨晩この店を紹介してくれた男性は、背広姿だったんで、てっきり30代前半かと思ったものの、きっと20代中盤だったんだなと思った。貪欲なほどの食欲と経済性を優先してしまう年頃だ。足るを知るまでまだまだ時間がかかる、本当に美味しいものと出会うまでには、まだ時間がかかるかもしれない。

食べているといつもの常連であろうか、よく知った仲だと思しきお客さんが顔を出す。出前を注文しにきたようだ。店主と立ち話をしているが、店主はことあるごとに「すみませんね」と付け加えていた。とくにお客の帰り際には、その「すみませんね」が連発されていた。

10年以上も前に出張で京都にきたときに、平安神宮の近くで古い昭和な喫茶店でランチを頂いたことがあったのだけど、そこの年配のおばさんも同じように「すみません」を連発するのであったことを思い出す。メニューを出しにきた時も「すみませんね」、料理やコーヒーを出すときも「すみませんね」、挙げ句の果てには、会計のお釣りを渡すときにも「すみませんね」とのたまうのであった。

その「すみません」に含意されているものがよく掴めないでいた。「あまり美味しくなくてすみませんね」なのか、「ちょっと高くてすみませんね」なのか。

わたしのなかでの京都人は、”いけず”のイメージばかりが先行し、怖いなという感触ばかりに囚われていたのだが、この「すみませんね」が京都人のコミュニケーションの潤滑油として機能している様をみるにつけ、自身の硬直した京都人のイメージが少しずつ和らいでいくことを感じ始めていた。

食事を終え最後の目的地をあとにしながら、実に楽しい京都旅行だったなと物思いに耽ていたわたしの背中越しに、店主の「すみませんね」と云う心地よい声が響いてくるのであった。

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