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クレール・ドゥニ『パリ、18区、夜。』ダイガの移動について 2/2

リトアニアの首都ビリニュスからパリに至る長き道のりをともにしたオンボロ車を売却するために、ダイガは、「ギアがおかしい」などといちいち文句を垂れるディーラーと、通訳を担当するヴァシアとともに、そもそもこの車は売れるか否かレベルの商談をしながら、夏のパリを走っていた。そんななか、たまたま渋滞に巻き込まれたシメートフを(停車していた際に)目にしたダイガは、試乗していたディーラーからハンドルを奪い取り、シメートフをめがけて追走する。同乗する二人は、「売るのやめたわ」と宣言したダイガの

    • クレール・ドゥニ『パリ、18区、夜。』ダイガの移動について 1/2

      1994年のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品され、ヴィム・ヴェンダース監督をして「地球があと24時間でなくなるとしたら、最後に観る映画の一本は間違いなくこの作品である」と言わしめたクレール・ドゥニ監督の代表作である本作は、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの『意味の論理学』をもとに描かれた作品だと思っていたが、千葉雅也の救われる思いがした『現代思想入門』(講談社現代新書)を読むと、本作の内容がそのまま読み取れるように思えた。本作が作られた時代からしても、『意味の論理学』だ

      • クレール・ドゥニ『J'AI PAS SOMMEIL』パリ18区へようこそ

        本作は、1984年から1987年の3年間に、パリ18区界隈で起きた21件もの老女連続殺人事件(ポーラン事件)をベースに、多種多様な人種が行き交うごった煮の街パリ18区における様々な日常風景(強盗殺人・同性恋愛・夫婦喧嘩・ダンス等々)を、同じ目線で、同一平面上に描いた作品である。 パリ18区の殺人者実際にあった殺人事件をフィクションに取り入れるに当たって、サスペンスや犯罪病理学的な分析を排除したことについてのインタビューの質問に、ドゥニは、「ポーランと彼の共犯者の行動や性格を

        • クレール・ドゥニ『パリ、18区、夜。』スカーフに込められた民族の生

          1 旧ソ連からパリに移り住む老女イラの部屋に、役者を志す親類の少女ダイガが、リトアニアの首都ビリニュスから、独立後のリトアニア経済を象徴する廃車寸前のオンボロ車を走らせ移住を求めやってきた。イラはお茶を用意しながら、「さぞかし旅費は高くついたろうね[…]ペレストロイカでどうなったことやら」と皮肉を漏らす。するとダイガは、「最低よ」と、リトアニア(旧リトアニア・ソ連社会主義共和国)を代表し、答える。それは、独立宣言の取り消しを拒否するに伴い経済封鎖に踏み切ったり、ビリニュスへ

        クレール・ドゥニ『パリ、18区、夜。』ダイガの移動について 2/2

        • クレール・ドゥニ『パリ、18区、夜。』ダイガの移動について 1/2

        • クレール・ドゥニ『J'AI PAS SOMMEIL』パリ18区へようこそ

        • クレール・ドゥニ『パリ、18区、夜。』スカーフに込められた民族の生

          シャンタル・アケルマン『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』ジャンヌ・ディエルマンの生をめぐって

          本作は、物語ること、共有することのアイデンティティの損失を軸に、蓄積する不安やストレスが惹き起こす閉塞性に囚われる女性の三日間を描く。 1 ジャンヌ・ディエルマン(以下ジャンヌ)は編み物をしようと、そのときの気分に応じるものとしてラジオをつけたのだが、流れだした『エリーゼのために』は、終始、ジャンヌのためのメロディであり、映画それ自体に活かされることはなかった。つまり『エリーゼのために』は機械に落とし込まれた多様性の一端に過ぎず、必要に応じ、そして与えられた時間にだけ機能

          シャンタル・アケルマン『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』ジャンヌ・ディエルマンの生をめぐって

          誰も判ってくれない

          2,大阪から帰省した日のこと、私は、祖母の部屋に布団を敷いた。それはもちろん、私が就寝するための布団である。小学生の時分は、祖母が寝入った布団に潜り込み、温もりに包まれながら寝ていたのだ。だが、なぜか祖母の表情は硬ばっていた。そしてその表情は、私との再会を拒んでいるようにも思えた。祖母は何も喋らなかった。それゆえ私は、次第に部屋の空気に圧迫され、就寝につくことはもとより、私の居場所さえ奪われる感覚に陥ったのだ。そして部屋はますます気まずさに満たされていった。いや、そうではない

          誰も判ってくれない

          誰も判ってくれない

          「…私は私の喪に服していた 自分の唯一の友の喪に」 1,『〈ある〉の体験について』で触れた『JLG/自画像』(1995)のゴダールの上記の言葉は、私に、「私の死」の現象を想起させ、即座に「私は死んだのだ」と認識するに至らせた。 「私の死」は、私の幼いころの写真(母と手を繋いだ子供だったころの私)に対して泣き崩れたときにあふれ出た涙と悲しみの忠実さに抱えられたのだ。 突然、何かに突き動かされたかのように階段を駆け上がり、アルバムを開いた瞬間に眼にあふれた涙は、紛れもなく「死

          誰も判ってくれない

          ジョン・セイルズ『ベイビー・イッツ・ユー』ジル、あるいはロザンナ・アークエット

          中流階級育ちの役者の卵であるジルと、ジルと同等あるいはそれ以上の階級育ちの懐豊かなエリートに見えながらもしかし、その実反則的スタイルの夢見る不良(強盗)男子であるシークが繰り広げる青春恋愛ドラマという設定における物語である。 1 ジル(ロザンナ・アークエット)が在籍するハイスクールに転校してきたシーク(ヴィンセント・スパーノ)はジルとすれ違うや否や、あたかもスカウトマンであるかのように、終始、一目惚れの情感を打ち破る程の一方的な好意をジルに放つ。ジルは、その動物的とも言える

          ジョン・セイルズ『ベイビー・イッツ・ユー』ジル、あるいはロザンナ・アークエット

          ワン・ビン『死霊魂』声を奪われた人々の声と、〈ある〉(ilya)

          1957年、毛沢東が掲げた労働改造における反右派闘争/反体制狩りによって、党の政策批判を含めた自由な発言をした人々は、ある日突然、右派分子のレッテルを貼られ、荒涼としたゴビ砂漠に佇む強制収容所、こういってよければ、エマニュエル・レヴィナスのいう、「荒涼とした無人の空間」に政治犯として送られた。その数少ない生存者の声、語りを収録した本作『死霊魂』(2018)の取材/撮影期間は、2005年から2017年までの12年間である。つまり本作の姉妹編である『鳳鳴 中国の記憶』(2007)

          ワン・ビン『死霊魂』声を奪われた人々の声と、〈ある〉(ilya)

          〈ある〉の体験について

          たとえば、人間身体は血液の循環やそのほかの人間身体が生きていると認められている諸点が保持されていても、それにもかかわらずその本性が完全に異なった別の本性に変わりうるということを、私はあえて否定しない。a ところで、「私は高次脳機能障害者である」というのは、共存する者がいるという事実によって私は、私を脳障害者として分類すると同時に、私の側面としてそれを理解することが出来る。だが、私個人に降り掛かる事象であるというよりは、むしろ前例のないと思われる事象であり、かつ『ガーゴイル』

          〈ある〉の体験について

          ジェームズ・マンゴールド『フォードVSフェラーリ』ケン・マイルズのフォードへの贈り物

          1 あたかもマシンとの不倫関係に制裁を加えられたかのような結末を迎えたケン・マイルズの言葉、「見事なマシンだ」は、シェル(キャロル・シェルビー)のケン・マイルズへの慎ましき称賛の言葉、「見事な走りだった」と向かい合い呼応する言葉ではなく、また、ル・マンの勝利を謳歌するフォードを代弁する言葉でもない。それは、過去の走行においてでも勝利においてでもなく、勝利を過去のものとして括りあげた上で、純粋に未来への幕開けの意味を持ち得た言葉なのだ。ワンショット内でのふたりの掛け合わない言

          ジェームズ・マンゴールド『フォードVSフェラーリ』ケン・マイルズのフォードへの贈り物

          トニー・リチャードソン『マドモアゼル』の逃走劇

          マドモアゼルとマヌー マヌーを弁護する「愛」の関係から、マヌーと戦う「戦士」へ、そして、マヌーを悪たらしめる「神」となる聖マドモアゼルは、ジャン・ジュネの「聖性」、あるいは、マドモアゼルの「鏡」を原理とした逃走のモデルである。終盤に差しかかりマドモアゼルは、「愛」を裏返し、「戦士」と「神」のふたつの劇場型の役をたて続けに惜しみなく演じる。そして、『マドモアゼル』における最も重要な村人への言葉、「Oui」は、「戦士」が「神」になるのであり、それが村人への指令となる。つまり、マ

          トニー・リチャードソン『マドモアゼル』の逃走劇

          トニー・リチャードソン『マドモアゼル』ブルーノ、あるいはジュネの裏切りと抵抗

          「聖性とは、苦痛を役立たせること、である。それは、悪魔に神であることを強制することだ。それは、悪の感謝をかちとることだ」a 1 本作品は、フランスのとある小さな村で度々起きる洪水と火事を中心に、放火犯の疑いをかけられながらも勇敢に惨事に立ち向かうイタリア人の林業者マヌーと、洪水を起こし、かつ家畜小屋に放火する悪女たる小学教師マドモアゼル。そして、マドモアゼルに罵言を浴びせられ、乞食扱いをされるマヌーの息子であるブルーノの三者が織りなす物語である。 悪女そのものであり、悪

          トニー・リチャードソン『マドモアゼル』ブルーノ、あるいはジュネの裏切りと抵抗

          ベルナルド・ベルトルッチのもうひとつの遺作『Scarpette rosse』

          電動車椅子を運転することを軸とした短編映画、『Scarpette rosse』(赤い靴)と、その挿入歌の『私は歌う』が示す生成と、自由のイメージについて。 電動車椅子が石畳を前進するシークエンスにおいて、ごつごつした地面に突入し、タイヤからの振動を知覚することにより「ああ」と、声を発する。すなわち、電動車椅子(機械)は運転手(ベルトルッチ)の身体の身体となる。そうして、シャルル・トレネの『私は歌う』が流れ出す。 私は歌う! 朝も晩も歌うんだ 道の上でも歌う 歌いながら農場か

          ベルナルド・ベルトルッチのもうひとつの遺作『Scarpette rosse』