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トニー・リチャードソン『マドモアゼル』の逃走劇

マドモアゼルとマヌー

マヌーを弁護する「愛」の関係から、マヌーと戦う「戦士」へ、そして、マヌーを悪たらしめる「神」となる聖マドモアゼルは、ジャン・ジュネの「聖性」、あるいは、マドモアゼルの「鏡」を原理とした逃走のモデルである。終盤に差しかかりマドモアゼルは、「愛」を裏返し、「戦士」と「神」のふたつの劇場型の役をたて続けに惜しみなく演じる。そして、『マドモアゼル』における最も重要な村人への言葉、「Oui」は、「戦士」が「神」になるのであり、それが村人への指令となる。つまり、マドモアゼルが神であることによって、あるいは悪魔が神であることによって、マドモアゼルの完全犯罪は成し遂げられる。それはまた、「マヌーの死」はすなわち「悪魔の死」であるから、警察官を含めた村人は、その「死」に権限を与えることもなく、その「死」を神において葬る。したがって必然的に、マドモアゼルの犯罪もまた雲散霧消するのだ。

逃走を支えるのは身体(大地)が可能な限りであるが、それには条件がある。つまり、マヌーの身体を犠牲にすること。というのは、マヌーの身体(大地)は、マドモアゼルの舞台であり、災害を引き起こし、群れを創造するたびに、マヌーの勇敢さにおいて、マヌーの身体において、官能的な騒ぎを抑えきれない。マドモアゼルにおいてのマヌーとは、災害時のシークエンスでのショットの切り返しにおいて顕著に示される。それはすなわち、マドモアゼルが創造する部分に収まらない全体に等しい部分である。それは、マドモアゼルの眼差しに映り込むマヌーに表現(光輝=愛)を与えるために群れ(全体)を創造する。「彼こそ本物の英雄ですわ。炎より燃えて…まるで彼の為の火事でした」。炎(愛の表現)は、マヌーが存在する限り必ずや起こるのだ(だから、炎を鎮火する消防隊員はマドモアゼルの敵である)。そして、村人がマヌーを死に至らしめたのは、マドモアゼルがマヌーから被害を受けたからではなく、村をマヌー(火種)から守るためであり、だから、マドモアゼルは、結果、村を悪魔から守るためのブロックとなり、村人の対象が悪魔である限りの絶対的な神(裁きのファクター)であれたのだ。

ブルーノとパパ

マドモアゼル(ママ)からの罵言にブチ切れるブルーノの発言。すなわち、「二度と戻ってくるもんか。お前なんか見たくもない。〈ヘドが出る。汚いアバズレめ。大嫌いだ!〉」は、フランス語から、ブルーノの母国語である〈イタリア語〉に変化する。

フランス語からイタリア語へと変化させたブルーノの亀裂の入ったこの発言は、非身体性(ナンセンス)に満たされた内発的な出来事であり、したがって、運動性の欠如をあらわにする。というのは、ブルーノはパパ(愛)に包まれており、「俺たちはよそ者だ…」というパパを知り、ノコギリ(チェーンソー)で手を切ったパパを知る以上のことを知る由もない。ブルーノにおけるパパ(愛)とは、いわばオブラートであり、窮屈で、かつ知覚を遮り、運動を得ようとするブルーノを許しはしない。ノコギリで木を切ろうとするブルーノは、パパに「ノコギリで遊ぶな」と叱責を浴びる。そして、その場から走り去ったブルーノは、木の幹に顔を伏せ涙を流す。《どうすれば動くことが出来るのだろう。どうすれば「傷」を知ることが出来るのだろう。何度も何度も「どこにいた?」だなんて、パパがいる限り、ここがフランスであろうが、イタリアであろうが、どこにいても変わりはない》。ブルーノがマドモアゼルに「ママ」を要求したのは、直々に「傷」を授かり、その「痛み」を知ることが出来たからである。それは、人間を痛みによって知ることなのだ。フランス語はそれを知るための手段であり、ささやかな、そして、危険に満ちあふれたひとり旅となる。イタリア語への変化は「イタリアへ帰る」を意味するのではなく、「パパ(よそ者)の子供に帰る」こと(ナンセンス)を意味する。したがって、ブルーノが運動(身体)と時間(精神)を得ることが出来るのは、ジャン・ジュネによる「聖性」(価値転覆)であり、「裏切り」(愛の裏返し)なのだ。

ジャン・ジュネ(1910.12.19〜1986.4.15)

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