見出し画像

ベルナルド・ベルトルッチのもうひとつの遺作『Scarpette rosse』

電動車椅子を運転することを軸とした短編映画、『Scarpette rosse』(赤い靴)と、その挿入歌の『私は歌う』が示す生成と、自由のイメージについて。
電動車椅子が石畳を前進するシークエンスにおいて、ごつごつした地面に突入し、タイヤからの振動を知覚することにより「ああ」と、声を発する。すなわち、電動車椅子(機械)は運転手(ベルトルッチ)の身体の身体となる。そうして、シャルル・トレネの『私は歌う』が流れ出す。

私は歌う!
朝も晩も歌うんだ
道の上でも歌う
歌いながら農場からお城に行く
パンを求めて歌うんだ水を求めて歌うんだ
私は寝る
森の柔らかい草の上で寝る
羽虫に
刺されることなんかない
私は幸せさ 何でもあるし何にもない
私は道の上で歌う
私は結局幸せで自由なのさ。

凹凸とのささやかな闘争を終えることによって有機的身体を獲得し、それまでの力学的な運動による力(硬化)とは別の力、すなわちリズム(パトス、あるいは飛躍)が発生する。そうして、タイヤ(機械から身体へ)のクロースアップはリズム(身体から自由へ)のクロースアップに移行する。カメラ(精神)の視線は上昇し、赤い靴にたどり着く。カメラが示す精神は、「私は撮る」ことが『私は歌う』になる。したがって、映像と音楽が矛盾することなく見事に調和する感動的な瞬間が訪れる。

「有機体は複合的になればなるほど自由になる」a

しかし、有機的なものと飛躍はひとつとしてあるにもかかわらず、混合することは出来ない。なぜなら、有機的身体を獲得する過程で飛躍すれば、病に結ばれ救急車を呼ばなくてはならないからだ。圧縮されたものは弓に引っ張られ放たれる矢のように、その比率に伴い展開しなければならない。

ところで、『Scarpette rosse』はドキュメンタリーではない、もしくは最も小さなドキュメンタリー(クロースアップによる矮小化)である。つまり歴史的なもの、地理的なもの、そして、運転手の身体と顔(視覚的人称)も排除され、殆どはタイヤの働きに集中させる音とモンタージュである。それに加え、題名でもある赤い靴は、そこに至るもの、そこに映し出されるものでしかない。けれどもこの1分39秒の映像、すなわちタイヤからリズムへ、身体から自由への開放的クロースアップに収められたユーモア(複合的)な道のりが示すイメージは、広大(フレームの外へ)であり、非人称的であり、そして自由に生まれることが示される。

「私の傷は私よりも前に存在した。私はそれを具体化するために生まれたのだ」b

「私」は傷を負って初めて「私」(個体)になるのではなく、傷(運命)は、「私」が存在する前から存在する前個体的なエレメントであり、無際限な線上にある出来事である。ベルトルッチにおいては、車椅子の存在に相応しいシチュエーションにする為に傷(腰痛)が事前に用意されており、その実現に向かって存在が働いていたのだ。

映像には含まれていない『私は歌う』の最終章では、私は死に、私は幽霊になり、私は歌う。すなわち死と出会い、死に生まれ、そうして自由になる。

ベルトルッチの遺作『孤独な天使たち』(2012)に隠れたもうひとつの遺作である『Scarpette rosse』(2013)は、ベルトルッチが審査委員長を務めた第70回ヴェネツィア国際映画祭の記念として製作された『Venice70:Future Reloaded』(YouTube公開)に収められた一編である。

a フランソワ・ジャコブ
b ジョー・ブスケ

監督 ベルナルド・ベルトルッチ
製作 2013年(イタリア)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?