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クレール・ドゥニ『J'AI PAS SOMMEIL』パリ18区へようこそ

本作は、1984年から1987年の3年間に、パリ18区界隈で起きた21件もの老女連続殺人事件(ポーラン事件)をベースに、多種多様な人種が行き交うごった煮の街パリ18区における様々な日常風景(強盗殺人・同性恋愛・夫婦喧嘩・ダンス等々)を、同じ目線で、同一平面上に描いた作品である。

パリ18区の殺人者

実際にあった殺人事件をフィクションに取り入れるに当たって、サスペンスや犯罪病理学的な分析を排除したことについてのインタビューの質問に、ドゥニは、「ポーランと彼の共犯者の行動や性格を、医師や専門家たちは犯罪病理学的に、何も説明することができなかった。つまり彼らがなぜ罪を犯したのかがわからなかったのです。その結果を踏まえて、私たちはそういった心理探索や犯罪病理学的な説明を排除したのです」と答えている。確かに、老女の遺体から病理的な異質性は見当たらなかった(描かれていない)ことに加え、人命に伴い金品も失われていることを踏まえれば、ジュリアン・デュヴィヴィエの群衆劇『巴里の空の下セーヌは流れる』(1951年)の孤独な彫刻家マティアスのように、病んだ精神が犯行動機となるような殺人事件とは異なった、欲望に囚われた事件という印象を受ける。被害者が老女に限られていたのも、抵抗力のなさに付け込んだのかもしれない。ティエリー・ポーラン(=カミーユ)の過去を見ると、マルチニックに生まれてからフランス本土に旅立つまでの12年間、少し乱暴なところがあったにせよ、という程度であって、「20世紀最大の殺人者」と呼ばれることを連想させるような奇矯な振る舞いなどはなかったらしく、むしろ、母によくバラの花を贈るなど思いやりのある頭のいい子だったらしい。しかし、生まれてから一度も会ったことのない父親を頼りにやってきたパリにおいて、ポーランは、犯罪者としての経歴を積むことになる。彼は娯楽業界での成功を夢に、高級クラブや女装バーなどに通い始め、髪をブロンドに染めたり、イヤリングをしたりするなど、夜の社交貴族を装うようになった。恐らくは、こういった有り様が犯行の要因となったのだろう。この頃付き合っていた彼氏であるジャン=ティエリー・マトゥラン(=ラファエル)と、強盗や殺人を犯し始めたのだ。というわけだから、結局のところ、彼らの犯罪遍歴から病理的な性質を見出すことは不可能に等しく、だからこそ、数多くの犯罪を生んだ街パリ18区を描く。殺人者ポーランは、眠れないパリの夜が演出するトレンディなナイトクラブやパーティー、そしてダンスを好んでいたと言われている。

パリ18区のユーモア

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パリ上空をヘリでパトロールしながら、ひたすら笑う二人の警察官を捉えるカメラは、しばらくすると、ヴィム・ヴェンダースの移動の映画『まわり道』(1975年)を彷彿とさせる神(メタ)視点で、雲に覆われた地上を映し出す。『まわり道』のDVDブックレットには、「空撮というとつい〈神の視点〉を持ち出す観客に対する牽制のようだが、神学や歴史から疎外された(あるいは疎外する)存在としての自己を(自己が)描写するというテーマに従えば、必然的に神は排除される」と、青山真治は述べている。しかし、奇跡のような「何か」を待っていたという、小説家を志願する主人公ヴィルヘルムいわく「無意味なまわり道」は、意味=神に対する無意味を示しているのだろうか。本作は、もとより神に見捨てられたアンモラルな街パリ18区に焦点が当てられる。

「番組を聴いているすでに若者ではない皆さん パリには百歳が大勢います 百まで生きたいならご用心を 老婦人を狙う強盗がうろついています うかつに扉を開けず 明るい一日をお過ごし下さい」ーダイガが運転する車内に流れるラジオの音声。

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パリに到着したダイガは、老女の遺体が発見され、住民がざわついているアパートに住む親族の小洒落た老女イラに、「シャルナス(バルタス)の孫よ」と移住を求めやってきた。このイラのキャラクターは、サシャ・ギトリの恋愛劇『あなたの目になりたい』(1943年)の彫刻家フランソワの彼女であるカトリーヌの祖母の話し方から声のトーンに加え、「危険なパリだからこそ孫娘を守る」という信念までもが重なるが、しかしイラは、自分の部屋が狭いことを理由に、9階に住む仲良しのヴァシアにこの子を泊めてやっとくれと頼み込んだ。ところがヴァシアの部屋は、すでに、ブルガリアの踊れないダンサーや、ウクライナの母娘等々の居候(移民)が占めており、空きはヴァシアの部屋しかなかった。そんなわけで、イラは最後の砦として、ホテルを経営する友人の老女ニノンを訪ね、ダイガをホテルに住まわせるよう嘆願する。その結果、ホテルの従業員として働くという条件下で、ダイガは、ホテルの物置に移住することとなった。

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いつになっても宿泊料金を支払わず、甘えてばかりのカミーユとラファエルに注意を促すも、態度を急変させ、まるで我が子のように接するニノンは、「うんと悪い子なさい」と笑顔で送り出したその二人が、うんと悪い老女連続強盗殺人犯であること。そしてその二人がいるからこそ、武術道場を開いているということを知らずして、ダイガの腕にそっと触れながら、「優しい人たちなんだけど」と話す。夜になると、落ち込んでいるダイガを元気付けるためにお酒を交わし、酔いが回ったところで手を取り合い踊ったりするなど、母性的なニノンの愛情は、欲望の対象である一方、昼間の騒動を鎮め、癒しを与えるパリの夜に反映しているように思える。たとえば、故郷マルチニックでお金に頼らない原始民族的な自力生活を切望するテオと、それに猛反発する妻であるモナとの熾烈な闘争に、夜が明け対立関係に陥るまでの僅かな間、屋上で眠りゆくふたりの愛らしい男児とともに癒しを与えながら沈静を図ったり、ヴァイオリニストであるテオが参加するバンドKALIの奏でる悲哀とともに、パトカーと横並びでパリの夜道を徘徊する殺人者カミーユを包み込む。

パリ18区のニヒリスト

麻薬のディーラーとして、連続強盗殺人犯として、つまり絶対悪として(しかし否定的に描かれていない)パリ18区の一側面を形成するカミーユは、とある老女の部屋で、殺害の凶器であるベルトを首にかけ、ドアの枠にもたれかかっていた。その後ろには、金品によって存在を嗅ぎ分けられた老女が床に伏せている。そして、幸い、この被害者は一命を取りとめた(おかげで、カミーユとラファエルの似顔絵を作成することができた)ということはこの際どうでもよく、罪(人殺し)に対する後ろめたさを微塵も感じさせないカミーユの呆然としたあり様は、死の重さは金品の物理的な重さと変わりはないという、神にすっかり見捨てられた街パリ18区ゆえの野蛮さを表現していると思わざるを得ない。そしてそれは、エイズの感染が(1986年、別件で逮捕されていた際に受けた健康診断で)判明したカミーユも例外ではなく、そのことを伝えるために、兄(テオ)を訪ねるが、結局は「またにしよう」と、その足で向かったクラブで見ず知らずの男とダンスに耽ったり、ラファエルと愛の詩を綴ったりと、死を厭わぬ幸福に身を委ね、死へと歩んでいく。当然ながら、「カミーユの死」などその気配すら描かれていない。

「悲惨な事件が起きました 老婦人が殺されていたのは エピネット通りの建物です そこは ビュシェールの映画の題名になりました パリ18区にあります 18区といえば "ムーラン・ルージュ"で有名な歓楽街で 人生を楽しむ街です」ー老女の死体が横たわる解剖室に流れるラジオの音声。

*付記

ティエリー・ポーランはエイズのため、1989年に審判を待たず26歳で生涯を閉じたが、21件の殺人罪を含めた数々の犯罪件数は明らかにされていない。

ニノン演じるリーヌ・ルノー(1928年ー)は、『巴里の空の下セーヌは流れる』の主題歌を歌っている。

音楽を担当したジャン=ルイ・ミュラによるエンドクレジットの曲は、ミュラが、ドゥニから送られてきた脚本に添えられていたミシェル・フーコーの詩をイメージし、この映画のために書いたとされている。また、カミーユが女装クラブで踊る場面は、同じくミュラによる本作のテーマソング『Le Lien Défait(壊れた関係)』にインスピレーションを受けて撮影されたとのこと。

監督 クレール・ドゥニ
製作 1994年(フランス)

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