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ジョン・セイルズ『ベイビー・イッツ・ユー』ジル、あるいはロザンナ・アークエット

中流階級育ちの役者の卵であるジルと、ジルと同等あるいはそれ以上の階級育ちの懐豊かなエリートに見えながらもしかし、その実反則的スタイルの夢見る不良(強盗)男子であるシークが繰り広げる青春恋愛ドラマという設定における物語である。

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ジル(ロザンナ・アークエット)が在籍するハイスクールに転校してきたシーク(ヴィンセント・スパーノ)はジルとすれ違うや否や、あたかもスカウトマンであるかのように、終始、一目惚れの情感を打ち破る程の一方的な好意をジルに放つ。ジルは、その動物的とも言えるシークの対応に追われながらも、自らが所属する演劇部DRAMA CLUBにおいて、成功しなかったが、女優たることに信念を持った女優キティを演じる能力を向上させるかのように、自ずと自らが演じる役柄(キティ)にアイデンティティを保つ役者さながらの仕方で対応する。「彼女になり切って演技することですよね?」。つまり、生半可な能力では対応しきれないジルの学生生活を侵害するまでのシークの暴力的な好意(行為)に応じるということが、必然的に役者としての能力を向上させるシステムとして機能する。そして、ジルは演劇をより深めるため大学に進学する。

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「…ここの演劇は前衛的です 演出家は伝統を変えようとしています 自己の発見や内面的な感情の発露が重視されます」ジルの家族宛の手紙より

大学において、演劇の指導者はもとより、ジル=キティのアイデンティティあるいはシークを含め、家族や仲間といったジルの支えが疎遠となる一方で、ダンス、酒、ドラッグ、そして、シークの愛に応えるセックスシーンから新たな友人のひとり(マシュー・モディーン)との軽はずみなラブシーンが課題として用意される。ジルは順次片付けて行くのだけれど、「元気かい?」というシークの電話での問いかけに、「そうでもないわ 環境がね…落ち着かない」と、涙を零しながら答える。要するに、過去に戻れるわけもなく不安に陥ったジルは段階的に、ジル=キティからアークエット=ジルとしての場所を創造しなければならず、そして、それに応じるかのように、ジルではなくアークエットとしてのレッスンが待ち受けていたのだ。「ジル?高校の時 演劇部に入ってた?…いいかい? 今後は すべてを忘れてやり直すんだ」。この「すべて」とは、キティを演じていたジルも含まれている。現に、ハイスクール時代、ジルが演じたキティという役名に対して、大学のレッスンにおいては役名がなくジルである。つまり、大学の演劇指導者は本作の監督ジョン・セイルズの分身であり、そして、この映画自体が選ばれたロザンナ・アークエットの演技のレッスンとしての(ジルになり切る)場所なのだ。身分の格差を絡めた恋愛ドラマという裏表のないありふれた設定は、演技に徹することが出来るだけでなく、何よりも演技を見、評価を下すに最良ではなかろうか。アークエットは、セイルズが要求する退廃の道を辿るジルを創造する。そして、最終課題としてセイルズは、「崩れ去った夢における絶望感に伴い、電話も手紙も一向によこさないジルへの怒りが沸点に達したシーク」という爆弾を、真昼間に掻っさらった盗難車の便に乗せ、ジルが寝泊まりをする寮の部屋にアポなしで送り届ける。ジルの部屋にたどり着いたシークは、帰宅したジルがレッスンを始める下準備として、整えられた女性の部屋をあたかも空き巣泥棒に荒らされたかのような舞台に仕立て上げる。そうして、寮に帰ってきたジルが部屋に入る。

本作の主演に抜擢された若きアークエットは、セイルズの指導に準ずるだけでなく、「あなたの操り人形じゃないのよ」と平然と言ってのける程の演技を披露し、主席で大学を卒業する(とでも言いたい)。それからの活躍ぶりは、この期に及んで言うまでもないだろう。

監督 ジョン・セイルズ
製作 1983年(アメリカ)

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