見出し画像

クレール・ドゥニ『パリ、18区、夜。』ダイガの移動について 1/2

1994年のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品され、ヴィム・ヴェンダース監督をして「地球があと24時間でなくなるとしたら、最後に観る映画の一本は間違いなくこの作品である」と言わしめたクレール・ドゥニ監督の代表作である本作は、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの『意味の論理学』をもとに描かれた作品だと思っていたが、千葉雅也の救われる思いがした『現代思想入門』(講談社現代新書)を読むと、本作の内容がそのまま読み取れるように思えた。本作が作られた時代からしても、『意味の論理学』だけでなく、1960年代から1990年代を中心に、主にフランスで展開したとされる思想(ポスト構造主義)の潮流に乗った作品と考えられる。ダイガの移動を通して、従来の価値観や、善と悪といった二項対立を脱構築し、逸脱する問題に目を向けるのである。そしてそこには、千葉雅也のnoteの記事『芸術作品とは「解けない問題」である』から言葉を借りて言えば、「人を尊重する、人の抱えている問題をどんな人でもどんな極悪人でも尊重する、という倫理がある」

1

リトアニアに訪れた舞台監督のシメートフから仕事の誘いを受け、なけなしの金を手にパリにやってきたダイガは、シメートフに到着したことを伝えようと、立ち寄ったカフェで一息入れた後に電話をかけ、高らかに自分の名前を名乗った。すると、まるで門前払いをするかのような留守電のアナウンスが流れ出し云々。とこのような、日常的にありふれた出来事が一度きりならまだしも、実はダイガが「ダイガ」である限り無限につづくという、不条理な仕掛けが施されている。

電話がつながり、ダイガはシメートフとオデオン座で会えることとなった。そして当日、オデオン座のミーティングルームに案内されたダイガは、スタッフと打ち合わせをしていたシメートフと再会する。シメートフは、「久しぶり」と部屋に入ってきたダイガに応じ、「元気? パリには?」と、ダイガの様子をうかがうものの、歓迎する様子もなく、話は事前に用意されていたかのように、淡々と進んでいく。通訳者のサシャはダイガに歩み寄り、「研修の時の君をよく覚えているそうだ でも今年は企画が流れてしまった 来年はやれるかもしれない そしたら彼が使ってくれるよ[…]フランス語を練習しないとな」と、シメートフの指示通りに、ダイガの期待を踏みにじるシメートフからのメッセージを「優しく」ダイガに伝えると、今度は、パリに誘った張本人であるシメートフが重い腰を上げ、「僕からも説明しとこう」と、再会して間もないダイガに帰ることを促すよう廊下に連れ出し、「一緒に食事に行かないか どう?[…]人に会ってフランス語を覚えるといい じゃ また」と、親密さを装う距離で語りかけ、そしてキスを交わしながらも、リトアニアからパリまでの長き旅路を労うこともなく、また、ダイガの意志と未来を語り合うこともなく、そっけなくその場を去っていく。肩透かしを食らうとはまさにこのことなのだが、シメートフの意図はさておき、ここでは、「フランス語を覚えなければならない」という指示が「権力」を示すとともに、ダイガが権力から逃走する「異邦人」になることが示唆されている(「マイナー文学」Wikipedia参照)。

2

その夜、ダイガとお酒を交わすニノンは、「男の話を聞きたいでしょ」と、自身の恋の遍歴を話そうとする。しかし、「ええ 聞きたいわ」と返事を聞くやいなや、「もうあまり考えないの 心が乱れるから」と、内容は伏せながらも、「男の見る目が変わったの」とだけ話す。その「見る目が変わった男」とは、『あなたの目になりたい』(1943年)の主人公である目の見えなくなった彫刻家フランソワであり、そしてニノンは、目の見えなくなる瞬間のフランソワと語り合っていた歌手ジルダである。そんなニノン=ジルダは、自身がフランソワと語り合っているところを目の当たりにしたカトリーヌ(後のフランソワの婚約者)が心を乱し、フランソワから離れたことを知っているように、愛おしく思うシメートフに蔑ろにされたダイガが、心(視点)を乱していることを知っている。「もうあまり考えないの」という発言は、そんなダイガへの配慮と思われる。

ニノンの役割は、オデオン座の舞台に憧憬の念を抱く人格からダイガを解放することである。その手段として、自身お気に入りのプロコル・ハルムの『青い影』を流し、お酒が身に染み渡ったダイガと踊り明かす。これは、ディオニュソス的芸術(音楽)による主観(意欲する個体)の自己忘却をモチーフにしたダンスであり、本作がダイガの人格に即した物語ではなく、パリ18区を舞台に生きる人々の関係を客観的に描いた群衆劇であることに影響を及ぼしている。 

ドゥニは、「なぜあなたは、この映画で群衆劇のスタイルを取り入れたのか?」というインタビューの質問に対して(上述の件には触れていないが)、次のように答えている。

実際に起きたものすごくショッキングな事件というのは、その事件だけを追っても、事件の謎を解く事は出来ないということです。私たちは、事件の周囲の人間たち、つまり被害者や犯人の顔見知りだった人や家族や恋人たちを通じて、事件の謎を知るのです。彼らは、事件の不吉な陰であるとか、禍の予感を感じなかっただろうか?又は、もし自分が怪物の姉妹か、母親か、娘か愛人だったら!それが私の最初の問いかけだったのです。

3

本作の舞台となる神不在の街パリ18区には、生と死とか、善と悪などの二項対立がなく、役者を志す少女の無意味な移動や、移住問題を巡る夫と妻の終わりなき闘争、そして、マスコミに「怪物」と呼ばれた犯罪者の常習化された犯罪行為等々が、「出来事の群れ」としてパッチワークのように紡がれている。ダイガと類似するカミーユを例に挙げると、死の病であるエイズに感染したことを知ったカミーユは、その夜、故郷マルチニックでの自然に即した原始民族的な生活を、冷淡な視線を注ぐ妻と義母に説いていた兄(テオ)を訪ね、「話がある」とあれこれ打ち明けるのかと思いきや、「またにしよう」と、迷いを吹っ切るかのように、その場を去る。そして、意味あり気な沈黙に耳を傾けていた兄はカミーユが気がかりになり、後を追い、駅のホームで電車を待つカミーユに「一緒に行く」と伝えると、カミーユは、家族=ルールを尊重する兄に対して「家族団欒か」と冷笑し、パリの夜に消えていく。まるで、家族との縁を断ち切るかのように。

麻薬のディーラーであり、殺人犯であり、ゲイであり、そして放浪家(ノマド)であったティエリー・ポーランをモデルに描かれたカミーユは、みずからの信念に固執するがために、妻や顧客の要望(偶然性)をまったく受け入れようとしない頑なな兄とは対照的に、偶然の波に乗りながら日々を過ごしている。たとえば、女装クラブでのカミーユのダンスシーンで、黒色のドレスがはだけ乳首が見える。ドゥニによると、カミーユは観覧する男たちに、「これが俺の体だよ!好きにしておくれ!」と言っているという。それはカミーユの関係性が、閉塞的な家族から外部に属する男たちに変化することを示している。そして、エイズ感染はほかでもない、その結果=効果であり、感染経路が特定できない(見えない糸が絡み合う)偶然の出来事なのだ。

カミーユは身体の偶然性を肯定し、エイズの作品(出来事の息子)として生まれ直すのである。

また、警察署に連行され、容疑の認否を問われるカミーユは、犯行日時と、被害者の住所名前が次々に読み上げられるなか、表情を変えず淡々と容疑と認めながらも、「流されやすくてね こうなっちまう 世の中が悪い」と、良心の呵責なき持論を展開する。言い換えると、「俺は良くも悪くもない、偶然に身を委ねただけ」なのだが、問題は、容疑を認める一方、それに伴う動機・原因が欠如していることだ。つまり、カミーユが老女を襲ったのは金欲しさのためにではなく、「悪い世の中」に紛れ込んでしまったがために、である。確かに、犯行後のカミーユの呆然とした表情を見る限り、犯行目的を窺い知ることはできない。

ドゥニは、「実際のポーラン老女連続殺人事件をフィクションに取り入れるにあたって、お決まりのサスペンスや、犯罪病理学的な分析を排除していますね」というインタビューの質問に対して、「ポーランと彼の共犯者の行動や性格を、医師や専門家たちは犯罪病理学的に、何も説明することができなかった。つまり彼らがなぜ罪を犯したかがわからなかったのです。その結果を踏まえて、私たちはそういった心理探索や犯罪病理学的な説明を排除したのです」と、彼らを弁護するかのように答えている。この回答は、「彼らが罪を犯す」という問題には、その事件だけを追っても把握し切れない多種多様な要素が複雑に絡み合っているという、上記の「群衆劇のスタイルを取り入れた理由」と言っている内容は同じで、解けない「問題」を表現するのである。

「流されやすくてね こうなっちまう 世の中が悪い」というカミーユの言い分は、いわく「何もない」マルチニックで形成した母思いの人格が、欲望が渦巻くパリ18区=カオスに解体されていることを示している。

監督 クレール・ドゥニ
製作 1994年(フランス)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?