見出し画像

トニー・リチャードソン『マドモアゼル』ブルーノ、あるいはジュネの裏切りと抵抗

「聖性とは、苦痛を役立たせること、である。それは、悪魔に神であることを強制することだ。それは、悪の感謝をかちとることだ」a

1

本作品は、フランスのとある小さな村で度々起きる洪水と火事を中心に、放火犯の疑いをかけられながらも勇敢に惨事に立ち向かうイタリア人の林業者マヌーと、洪水を起こし、かつ家畜小屋に放火する悪女たる小学教師マドモアゼル。そして、マドモアゼルに罵言を浴びせられ、乞食扱いをされるマヌーの息子であるブルーノの三者が織りなす物語である。

悪女そのものであり、悪質極まりのない倒錯的犯罪者のマドモアゼルが、「聖マドモアゼル」であるかのように振る舞うのは、本作品の脚本を書いたジャン・ジュネがためである。そして、ジャン・ジュネの自伝的であり、退廃的バイブルであるところの『泥棒日記』(1949)をもとに、ジャン・ジュネは至るところに出没する。

放火犯の捜査をするかたわら、マヌー宅に訪れた警察官が、湯船に立ち上がるマヌーの鍛え上げられた肉体を見るやいなや、「たくましいな」と何気なく言ったのは、警察官の仮面を被ったジャン・ジュネの渾身の一言であり、そして、警察官に犯行時の居場所を追及されるブルーノをかばうパパは、ジャン・ジュネが愛し、ジャン・ジュネが従う「彼」であり、そして、マヌーのズボンを許可なく履いていた盗人ブルーノ、女もののハンカチを所持するブルーノはともに、ジャン・ジュネの反映に他ならない。
マヌーは、ブルーノに、「なぜ俺のズボンを?脱げ、はくなと言ったろ」と言い、ブルーノはズボンを脱ぎ、そして、タオル一枚姿の彼に投げ付け、パンツ姿でベッドに飛び乗る。マヌーは、投げ付けられたズボンのポケットから女もののハンカチを発見し、「女の子のか?」と、高らかに笑い上げる。
「パパ」とは、「彼」のように愛し、そして、従うことの記号なのである。

2

「誇らしいだろ?」

「なぜ?」

「英雄ぶって」

放火犯に疑われながらも、そうあるみずからの運命をあざ笑うかのように進む無頓着なマヌーと、マドモアゼルの拷問の的にされながらも笑みを浮かべ、自由(特権)を手にした裏切り研修生のブルーノは、その村にありながら、忌み嫌われるよそ者である。却って、神の如く、家畜に洪水と炎をもたらし、すべては息絶えると言わんばかりに惨事に慌てふためく人と家畜の群を創り出すマドモアゼルは、村人に慕われる聖女であり、「純潔は美徳でもある」以外の何者でもなく、あたかも紅一点であるのように、あたかも村の女は野蛮であるに他ならない中で、女性的身振り手振りを手にしたのはこの未開なエデンの園に降りたった女神ー「母性的なものとは、その本質的要素が女らしさであるもの」bーであるように描かれる。そして、マドモアゼルは、みずからに燃えたぎる愛欲を開発せしめたマヌーの肉体に、性の嗜好性を寄せるがため、マヌーをこの村から追い出そうとする警察官に対し応戦する。

「彼を追い出す?」

「それしか解決策がない」

「でも…命懸けで救助してくれたのに、彼こそ本物の英雄ですわ。炎より燃えて、まるで彼のための火事でした」

「村にいては彼が危険だ」

「危険なのは私たちです。報いを受けますわよ」

マドモアゼルのこの一連の発言は、ジャン・ジュネが欲しながらも恐れをなす「聖性」に基づいた言葉である。つまり、炎には、神から愛を奪おうとする悪魔が存在する。

「…この放射された炎(光輝)は、わたしというそれが燃やしうる物質に出会って、わたしを燃えあがらせる、ーそれが愛なのである」c

3

夜になると、アドモアゼルは聖性を帯び、マッチとノートの切れはしを持ち出し家畜に引火する。準備が終わると、声が上がるまで部屋で待機する。そしていよいよ月の光に照らし出された静寂さは一変し、燃えたぎる地上に群がる人々と家畜によって、天変地異が描かれる。
その惨事をただ見物していたブルーノは、燃え残ったノートの切れはし(証拠)を発見するが、警察官に見せずに持ち帰り、後日、パパを、英雄的な死に導くために、燃え残ったノートの切れはしに火を放ったのだ。

「裏切る者が自己の背信を自覚していること、彼がそれを欲し、そして彼が人間に結びつけていたもろもろの愛の絆を断ち切ることさえできればそれで充分なのだ。美を得るために不可欠なもの、それは愛。そしてその愛をぶち壊す残酷さ」d

ブルーノが、マドモアゼルの残したノートの燃え残り(放火の証拠品)を跡形もなく消し去ったのは、『泥棒日記』における裏切り(愛の掟破り)の反映であり、それは、マドモアゼルの「聖性」においての愛と従いへの裏切り(契約)なのである。つまり、洪水に溺れる家畜を助け出そうとする勇敢なパパを壊すこと。だが、その契約が成立するにはブルーノへの利益がなければ成立はしない。すなわち「ママ」である。それはなぜかと言うと、ママの特権である“しつけ”を授かるのはその子供しかいないからだ。それゆえ、マドモアゼルのママらしからぬ罵言「早く出なさい!近寄らないで」に対してブルーノは、「二度と戻ってくるもんか。お前なんか見たくもない。ヘドが出る。汚いアバズレめ。大嫌いだ!」と言い、ママへのお近付きの品である衣服に隠していた野ウサギを木に叩きつけ、「ママの復活」を阻止しようとしたのだ

4

「いい男。私のものだよ」

「あんたとみんなのものだ」

不意に放たれた炎に集う二匹の獣は、燃え盛る家畜に立ち向かう勇ましいマヌーを見ながら声を出す。そして、この二匹の獣は、マヌーの断れない性格、つまり、「女には勝てない。もし見つめられたら拒めない」に罠を仕掛け、マヌーと触れ合っていたのだ。ちょうど、その獣たちの後方にいたマドモアゼルは、気が気でない表情でその発言を耳にし、二匹の獣を見ていた。
部屋に戻ったアドモアゼルは、壁にかけられた二面鏡を見る。しばらくすると、その二面鏡の手前にある小鏡を覗き見る。マドモアゼルにとっての鏡とは、白のテープで乳首をクロスに覆い隠す聖女(聖性との同一性)を写し出す鏡であるのだが、部屋にある鏡のすべてが聖なるマドモアゼルを映し出すとは限らない。マドモアゼルは、小鏡に映し出されたみずからに驚き、振り返り、部屋の後方にある鏡で、みずからは聖性であるのかを確認するかのように見、そして、その場を去る。
翌日、マドモアゼルは神妙な面持ちで、子供や青年を串刺しにし、殺戮し、火刑りにした邪悪な男、ジル・ド・レイの話を生徒にする。「…時折、夜になると、農民が寝ている間に村に火をもつけました。森を焼いたこともある。彼は塔の上から農家や森が燃え盛るのを見てました」と。そして、そのことを公にしなかった恥知らずな売女イザボー・ド・バヴィエールとシャルル6世(二匹の獣)そしてレイ(マヌー)の汚らわしき者たちに抗う清らかな娘、すなわち、聖なる戦士「ジャンヌ・ダルク」を語りながら、マドモアゼルは、みずからの裡に映し出された鏡が映し出すみずからに口づけをし、そして、「火あぶりの刑に処され、永遠の命を得た」と、炎に映し出されるみずからを見つめながら語る。
マドモアゼルにとってのジャンヌ・ダルクとは、聖なる自己背信的戦士なのだ。 

「…わたしが必要としたのは、ただ、わたしの泥棒としての運命を自己の栄光とし、この運命を希求することだけでよかったのだ」e

5

村では、マドモアゼルが無水亜ヒ素を溜水に撒いたことによって、それを飲んだ家畜の馬や牛が次々と(捧げものとして)死に行く様が映し出される。その死に行く馬の顔は、まるで、人間の死に行く様と同じように描かれる。そして、家畜の生命を失った村人は、やがてこの村は、マヌーの手によって滅びるだろう。と、マヌーに対する危険な思いは募るばかりであった。そんな中、林業をマヌーともにするイタリア人の仲間であるアントニオは、マヌーにこの村にいることの危機を打ち明け、「村を出よう」と誘うのだが、マヌーは、そのうち誤解も解けるだろうと言い、全く気にもせずにいた。何故なら、「英雄は生まれつき無頓着をその性とするのだ」f。そして、村は刻一刻とマヌーの英雄たらんとする道を切り開こうとする。そんな警察官や、司祭を含めた村人は、マヌーが放火犯である証拠は何一つ見当たらないどころか、アリバイがあるにもかかわらず、犯人はマヌーであることはみんな知っているという意識の下、噂に拘束された閉鎖的社会を作り出し、マヌーを探しに出る。
マヌーは夜の大地で、雨が降りしきる中、一晩中、マドモアゼルと絡み愛し合っていた。寝転んだマヌーの上で、マドモアゼルは唸り声をあげた。マヌーは笑い、そして優しげに顔を寄せ、キスをする。それは、「わたしは、ふた目と見られぬ化け物のような娘、四つん這いになって獣のように唸りながら歩き回る、白痴で、無垢な異形の娘を、世間から庇って家の中で守り育てた、あの女のようになりたかったのだ」gつまり、翌朝、マヌーはマドモアゼルにキスをした後に、「明日村を出る。息子とね」と言い、マドモアゼルを抱きしめるのだが、それは、マドモアゼルも一緒に連れて行きたかったに違いない。だが、マドモアゼルはその場から走り去ったのである。なぜなら、マドモアゼルが聖女であることの保証たるマヌーの口笛(神)のないこの村に、マドモアゼルが存在(悪魔と盟約)するわけはないからである。となれば、愛し合ったこの一夜のマドモアゼルは、「聖ジャンヌ・ダルク」になるための一夜でなければならない。つまりは、村人が路上に出、騒がしくしている最中にマドモアゼルはあたかも戦い終えた戦士のように、ぼろぼろになって帰って来たというわけである。

「奴の仕業だ」

「違いねえ」

「彼にされたの?」

そして、マドモアゼルは神(然り)となる。むろん異論もなく、満場一致で村の男どもは、マヌーをリンチせしめ、マヌーの必然的な、そして、英雄的な死の請負人となる。

マドモアゼルが、村人に惜しまれながら村を去る時に、ブルーノは、少し離れたところからその光景を眺めていた。そして、切り返されたマドモアゼルに向かって唾を吐く。ブルーノは、マドモアゼルがママであることへの契約書にサインすることによって、村中に広がる放火犯の疑念を背負ったパパを裏切り(死の大役を担うことになり)、パパは姿を消したのだ。つまり、ジャン・ジュネの始まりである。それは、マドモアゼル(ママ)が去る(捨てる)やいなや、村人(社会)は、近寄ってくるブルーノ(ジャン・ジュネ)から離れる。
ブルーノの吐いた唾は、マドモアゼル(ママ)が、ブルーノ(ジャン・ジュネ)のママであることを拒否したことへの抵抗なのだ。

a〜g『泥棒日記』

監督 トニー・リチャードソン
製作 1966年(イギリス/フランス)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?