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シャンタル・アケルマン『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』ジャンヌ・ディエルマンの生をめぐって

本作は、物語ること、共有することのアイデンティティの損失を軸に、蓄積する不安やストレスが惹き起こす閉塞性に囚われる女性の三日間を描く。

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ジャンヌ・ディエルマン(以下ジャンヌ)は編み物をしようと、そのときの気分に応じるものとしてラジオをつけたのだが、流れだした『エリーゼのために』は、終始、ジャンヌのためのメロディであり、映画それ自体に活かされることはなかった。つまり『エリーゼのために』は機械に落とし込まれた多様性の一端に過ぎず、必要に応じ、そして与えられた時間にだけ機能する、そういった扱いにおけるものでしかない。『エリーゼのために』はラジオと同じ意味のもとに括られたのである。

招待状の返信にペンを執っていたジャンヌに、学生である息子は「今夜 ラジオを聴くの?」とたずねる。ジャンヌは少し間をあけたのちに「そうね」とこたえ、ソファーで読書をたしなむ息子のまえを通り、ラジオをかける。しばらくしてジャンヌは、流れるメロディに耳をかさずにいるのだろうか、それともメロディが執筆作業の邪魔をしているのだろうか、思い尽果てたかのようにペンを置き、新聞を拾い読みしたり、編み物に取りかかるがすぐにやめたりと、見るに落ち着きがない。前日にあっては、『エリーゼのために』のメロディに身を寄せながら息子のセーターを編んでいたのだが(ジャンヌのこのメロディに対する馴染めなさというのは、母に対してラジオをかけて欲しいという、指示を仕向けた息子への隔たりを表しているのかもしれない)、この日ジャンヌの落ち着きのなさは、異様であった。というのも、昼間、鍋に残ったスープを廃棄するため、キッチンから鍋を手に部屋を行き来するも、結局のところキッチンに戻るのだが、流台にスープを流し込んだ際に、それが流れ切ったかどうかを確かめるために排水管にまで目をやったり、また部屋の往来が激しく(巧妙なカット割りに併せ、鳴りひびくヒールの音と、ドアの開閉音によって)、まるで強迫観念に囚われているかのように思えた。

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それはそうと、ジャンヌが主体的に存在するのではなく、イメージすら微塵もない、ジャンヌの身分証明書〈Identity Document〉のごとき本作のタイトルについてなのだが、もし仮に、〈ID〉のごときタイトルではなく、ジャンヌの存在(主体)性のイメージに応じたタイトルであったならば、それが『ジャンヌ・ディエルマン』であるならばなおさらのこと、ほぼ全編にわたり刻々と経過する時間が捉えるジャンヌの行動とでもいえばよいのだろうか、しかも対話ではなく、独白とも捉えられるようなジャンヌの家事、たとえば(長尺なければならないことに支えられながら、固定カメラでの長回しによって作り出される)食器洗いを、それが搾取における要素を含んだ現実であることを知らされるまで延々と観る(感覚としては、次第にジャンヌを見る行為から主体性が去り、怖くなる)ことに多少なりとも違和を覚えざるを得ない。つまり喜劇であれ悲劇であれ、ジャンヌが神でない限り、否応なしに物語(アイデンティティ)がジャンヌの人格を形成しなければならないのだが、〈ID〉のごときタイトルにおけるジャンヌの存在はイメージすらないことに加え、そもそもブリュッセルにおけるジャンヌの所在地「ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン」以外に示すものはなく、そしてそれはそれとして満たされているがために、ジャンヌは「ジャンヌの物語」を創造することができない。つまりラジオの音声と同様な扱いを受けるメロディのように、ジャンヌの主体は首都ブリュッセルに行きわたる〈ID〉(非人称性)に塞がれているのである。

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メロディを挿入する余地のないジャンヌの閉塞感/疎外感に満たされ、そこはかとなく緊迫感のただよう無機質な空間に佇むジャンヌは、ジャンヌみずからの不在を訴えるがために存在しているかのように思える。思考回路が途絶え、不安とストレスに支えられてあるかのようなジャンヌの暗雲が立ち込める様相は、心神耗弱状態に陥ったことを仄めかしているのだろうか、メロディにおける息子との隔たりに影をちらつかせていた閉塞感は、ジャンヌをとりかこむ静寂さによって、そして出口を探し求めるかのように、引っ切りなしに聞こえるドアの開閉音や、鳴りひびくヒールの音、また欲を消費する男にのしかかられ、身動きのとれない売春婦ジャンヌによって実現する。固定カメラに捉えられた静寂さは、物語の起伏をしずめ、ジャンヌの行動を監視するかのように際立たせるのだ。ジャンヌは、忍耐と受苦におけるアイデンティティのもとに描かれたのかもしれない、だが私が重要に思うのは、そういった意味に括られたジャンヌの生ではなく、むしろ上に記したキッチンで食器洗いをする「…ジャンヌを見る行為から主体性が去り、怖くなる」感覚である。思うにそれは、売春婦ジャンヌの客である男の首を、ジャンヌみずからが鋏で刺す結末/結果、あるいは物語/表象に回収されはしない出来事であり、流れる時間にブレーキをかけ、演出と虚構の皮をはぎ取り意味それ自体の損失をさらけだす。すなわちそれは、『エリーゼのために』がラジオの音声に消え去った瞬間に放たれた静寂さがそうであったように、食器洗いをするジャンヌを観る行為が受動性に囚われる瞬間の画面にあまねく広がる虚無に他ならない。この感覚、すなわち兆候とは、ズレに生じる感覚であり、現実であることを仄めかす裂け目なのである。

映画を鑑賞する意識を眩ませるほど「物語」に潜む超越的な性質の一切を取り除き、「抵抗」と同義的な裂け目を創造する。それはリアリストの仕事のように思われる。たとえばオードブルとメインの二回に分けられたジャンヌと息子の食事において、与えられた時間を二分するのではなく、映画に囚われない時間を作るのである。

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監督 シャンタル・アケルマン
製作 1975年(ベルギー/フランス)

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