車線変更に失敗してタイヤを擦らせたのはこれで三度目だ。その度に彼は舌打ちを鳴らしてスピードを上げる。なぜ一度止まってよく考えないのかわからない。すり減ったタイヤ…
市外にある古い旅館に合宿に行った折り、先輩からこんな噂を聞かされた。 北側の離れにある浴場では、髪を洗う時は桃のせっけんを使わなくてはならない、と。 「桃?」 …
欄間の隙間から、地獄が見えるのだという。 奥の部屋に位置する座敷。縁側に面した襖の上にそれはある。 成人男性より頭一つ分ほど高いそこ。少し背伸びをしないとの覗き…
自宅の書斎には剥製がある。 私が十七の時に貰い、二十三の時に死んだ犬の剥製である。 ペットシェルターからやって来た犬は、小型でくすんだ白い巻き毛に短い足をしてい…
天上にしみがある。 気がついたのは越してきた初日の夜のことだった。 よく内見の際に見落としたものだと、そのしみを見上げながら自分のぼんやり具合にもため息をついた…
呉はるか
2024年3月30日 12:08
車線変更に失敗してタイヤを擦らせたのはこれで三度目だ。その度に彼は舌打ちを鳴らしてスピードを上げる。なぜ一度止まってよく考えないのかわからない。すり減ったタイヤの側面を思い、私はガラス窓に額を寄せた。外は相変わらず暗いまま。出た時と変わらない夜の中をひたすらに走っているばかり。途中でトイレに寄るために一度止まった以外、ずっと走り続けている。走る速度を上げればそれだけ窓の外の光景も早く過ぎ去
2024年2月22日 20:25
市外にある古い旅館に合宿に行った折り、先輩からこんな噂を聞かされた。北側の離れにある浴場では、髪を洗う時は桃のせっけんを使わなくてはならない、と。「桃?」翔は訝しげに訊き返す。先輩の顔を見たが、冗談で言っているのかわからない。半ば困ったように緩やかな微笑を浮かべながら頷いた。正直に言うと、嫌だった。自分から桃の香りがするなんて。女子じゃあるまいし、湯上りに甘い香りを身にまとうなん
2024年1月26日 20:07
欄間の隙間から、地獄が見えるのだという。奥の部屋に位置する座敷。縁側に面した襖の上にそれはある。成人男性より頭一つ分ほど高いそこ。少し背伸びをしないとの覗き込むことは叶わない僅かな隙間。和室らしく木枠で縁取られた障子の上。質素ながら丁寧な造りをした欄間は飽きが来ず、今まで一度も手を加えられたことがない。家自体の築年数的にはもう半世紀を優に超えているため、昨年大幅なリフォームをしたにもか
2023年12月29日 20:51
自宅の書斎には剥製がある。私が十七の時に貰い、二十三の時に死んだ犬の剥製である。ペットシェルターからやって来た犬は、小型でくすんだ白い巻き毛に短い足をしていた。垂れた耳と喉の奥から振り絞るような苦しげな高い声。犬特有の太い爪をかちかち鳴らし、頼りない足取りで私たち家族の顔色を窺うように歩いていた。かわいいとは思わなかった。特に不安げな眼差しは私を苛立たせた。もともと弟が散々犬を飼いたいと
2023年12月25日 21:43
天上にしみがある。気がついたのは越してきた初日の夜のことだった。よく内見の際に見落としたものだと、そのしみを見上げながら自分のぼんやり具合にもため息をついた。真上に広がるしみ。顔の大きさくらいだろうか。電気をつけていないせいで、暗闇に紛れて余計に目立ち黒っぽい。豆電球を消してしまえば、いっそ暗闇に溶けて何も見えなくなるだろう。電気のひもは上体を少し起こさないと手が届かない。眠気と戦いつつ