しみ

天上にしみがある。

気がついたのは越してきた初日の夜のことだった。
よく内見の際に見落としたものだと、そのしみを見上げながら自分のぼんやり具合にもため息をついた。

真上に広がるしみ。顔の大きさくらいだろうか。電気をつけていないせいで、暗闇に紛れて余計に目立ち黒っぽい。豆電球を消してしまえば、いっそ暗闇に溶けて何も見えなくなるだろう。電気のひもは上体を少し起こさないと手が届かない。眠気と戦いつつしみを見つめていると、じわりと姿が形をなくしてきた。もういいか、と私は眠気に軍配を上げ、そっと目を閉じた。

「あまり気にするものでもないんじゃない?」

日中の陽光の中でくっきりと主張しているしみを見上げながら、友人は大して気に留めずに言った。もとより自分もそのつもりだが、住んでもいない人に言われると心配して夜も眠れないと思われているようで不快だった。それよりも今日の夕飯を何にしようかと考えている顔をしている。

「それもそうね」

手土産に持って来てくれた茶請けのクッキーをつまんだ。彼女の手作りはよくわからない形をしている。型取りを使って作っているのだろうが、生地が柔らかすぎるのか輪郭がはっきりしない。ちぎっては手のひらで圧をかけたような薄い歪な円形になる。大きさもまばらで厚さは込めた力の赴くままに任せているようだ。焼いているにもかかわらずうっすらと見える指紋が、今日は嫌に気に障った。

「水回りがよくないのかもね」
「年一で点検しているって不動産は言っていたけど」
「この上の階って風呂場?」
「間取りは同じよ」

座敷を寝室と構えて1DKの物件。できればフローリングのほうが好みに合っていたのだが、そのほかのオプションを何一つ譲りたくない。八階建ての六階南向きの角部屋。駅に近くてオートロック付き。築年数は考慮しなかった。周囲は二世帯住宅や核家族が点在する住宅地のため、程よく喧騒が広がっている。二階以上を希望していたため、畳に目を瞑ってしまえばまさに理想そのものだった。

たかだが寝に帰るための住居である。転勤や転職も相まって、もって二年程度だろう。五畳しかないのだからベッドを置いてカーペットを敷いてしまえば緑の面はほぼ見えない。家賃が少し安いのが決め手となり、私はここをしばらくの寝床にすることにしたのだ。
友人は自分の持ってきたクッキーの中で、見目のいいものを選別して口に運んだ。

「相場より安いの?」
「五千円くらい。微々たるものだけど貧乏にはありがたいわ」
「事故物件?」

今日のクッキーの出来栄えはどう?とでも言いたげな口ぶりだった。友人は私が気づいていないとでも思っているのだろう。手探りで選別する仕草は招かれる前にも一度行われていることを。ふんだんに使い込む薄力粉のすべてを私に捧げているわけではないことを。はっと鼻で笑うと友人の眉間にしわが寄った。私は急いで笑顔を見せる。

「知らない。何も聞かなかったもの」
「でも義務があるのよ。何も言われなかったってことは、つまり何もないってことじゃないの」

よかったじゃない、と彼女は明るく言うと私を通り過ぎて寝室の天井付近に目をやる。つられて私も振り向く。彼女のクッキーと同じような歪な形。具体的な模様を連想させることはできない。ただ不愉快を感じるだけだった。私は怖くはないのだ。漠然と気に入らないのだ。

ふと視線を感じて目線を落とすと、友人の哀れっぽい目と合った。

「あんまり気にしちゃだめよ。こんなこと、何でもないんだからね」
「気にならないわ」
「もしよければ、私から不動産に言おうか?それとも業者を紹介する?」
「どうして?さっき気にならないって言ったじゃない」
「だってあなたがあんまりしょんぼりしてるんだもの」

していないわ気のせいよ、と舌先まで零れそうになって口を結んだ。彼女の目に見える自分の姿はどうあがいても矮小で無力な子どもに映る。いつだってそうだ。中学の時も高校の時も彼女はいつだって保護者だった。
気が弱くて痛々しいかわいそうな少女のまま。たった一度彼女の前で涙を見せた時から、私と彼女の関係性は決定していた。
微笑みで濁し、受け流してどうにか彼女の干渉を避ける。必要のない物をわざわざごみ箱から拾い上げるような真似を彼女は侵さないことはすでに承知している。
めぼしいものを物色するような目で私を見ながら、彼女の手は絶えずクッキーを選んでいる。もはや無意識なのか、皿に残るのは残骸ばかり。それからはっと目を丸くしてから、急激に喜びが訪れたような表情を顔いっぱいに広げた。

「そうだ!じゃあ今日はここに泊まっていい?昨日越してきたばかりで急だけど、やっぱり気になるでしょう。慣れるまでは誰かがいたほうがいいかもね。久しぶりにゆっくり話したいし。ねえ、いいでしょう?」

すぐさまかばんから携帯を取り出し、誰かに連絡を取る。まだ何も言っていないのに同意を得られたとばかりの勢いで、私はもしかしたら知らないうちに頷いていたのだろうかと数秒前の自分を怪しんだ。彼女の小ぎれいな爪が携帯をタップする音が止む。

「でも旦那さんに申し訳ないわ」
「いいのよ。あなたのせいじゃないんだから、きっとわかってくれるわ。あの人も私がいなくてのびのびできるでしょう」
「寝具が足りないの」
「私がベッドで寝てあげる。だって、毎日目の前にしみがある状態なのよ。今日は私がその役を買ってあげるわ」
「食べ物だって何も買ってきていないし」
「そのくらいいいわよ。せっかくだからどこか食べに行きましょう。新宿においしいイタリアンがあるの」

もはや何も言えなかった。
嬉々として彼女はそのための用意を始めた。あらかじめこうなることでも予見していたのか、それともそうさせるために私を誘導させたのか、かばんから遊びに来るには多すぎる荷物を取り出して広げている。

「さあ、かばんが軽くなったし行きましょうか」

夕食には早いのではないか、という私の意見は耳には入らなかったようだ。
値段の表記のないメニューを目の前に突きつけられて、私はさらに彼女の保護下に入らなくてはならなかった。彼女はなぜ私があえて瑕疵の可能性のある物件にもかかわらず、目を瞑って見ないふりをして住むことにしたのか忘れているようだ。何も言わないでいると、あからさまにはっとした目で一瞥した後、彼女は「好きなものを頼んで。今日は私のおごりね」と微笑む。

彼女の中にある私を包む心理状態。おそらく奥深くにあって彼女自身も気づいていないのだろう。しかし私は知っている。

薄い皮膜のようなものが私を包んでいる。彼女の体液に満たされて窒息しそう。ぼんやりした視界。うっすら桃色に色づいた温かなぬくもり。気持ち悪い。

何が一番安いのか、何が一番高いのかもわからず、結局彼女と同じものを頼むしかできなかった。もちろんそれが彼女を助長させることは承知の上だった。せめてもの抵抗と思い、「こんなにたくさん食べきれないかも」と言ってみる。
ほんのり微笑みを浮かべたまま、彼女はナイフで私のフィレを大きく一切れ切り分けた。それを自分の皿に乗せる。一口で食べるつもりだろうか。

「学生の頃を思い出すわ。あの時のあなたはほんの瘦せっぽちでしょっちゅうお腹を空かせていたのに。やっぱり親元を離れたからかしら。私はあげるほうから貰うほうになっちゃった」

そっと目を落とすと、私の皿に置かれたものが残骸に姿を変えた。まずい。おいしくない。何を食べても砂を噛んでいるような不快感しかなかった。
自宅に戻って風呂の湯を張った。シャワーで済ませることが常だったので、風呂の湯をどのくらいまで溜めればいいのかわからなかった。給湯器が古く、熱湯を出さないといい塩梅にならない。どれだけ熱い湯を出しても、風呂釜に落ちれば途端に冷えていく。ぬるま湯と熱湯の混じり合う様子をじっと見ていた。
客人なのでしかたがない。彼女を先に風呂に入れた。一人暮らしが所有するタオルはせいぜい三枚で、そのうち一枚は引っ越しのささやかな祝いとして自分で新品を購入した。かなり迷ったが、みすぼらしいタオルを用意してさらに彼女の憐憫を買うのは我慢ならない。
ふわふわとした新品のタオルを見て、彼女はまた微笑んだ。

「せめて保温機能のある給湯器だったらいいのに。これじゃ風邪引くわよ」

風呂場から彼女の声が聞こえたが、聞こえていないふりをして無視をした。湯船に浸からないのだから風邪なんか引かない。そう言い返したところで彼女も聞こえないふりをするのだろう。
一人きりのリビングでじっと座っていると、またしてもあのしみのことが気になった。しみ。ぼんやりとした形を泳がせたまま、部屋に佇んでいる。私よりもずっと大きな姿で見下ろしている。

しみの真下に立ち、それを見上げる。やはり昼と変わらない姿で微動だにせず、凝視するたびにじわりと滲む。ベッドに乗り上げ、もっと近くに寄ってみる。

汚水が染みて天井を汚したのであれば、この真上こそが事故物件なのだろう。自分の住む物件でなければ通告の義務はない。

そっとしみに触れる。ひんやりとした天井の感触。何も感じない。

撫でた指を見てみると、うっすらと黒く汚れていた。もしかしたら擦ったら落ちるのかもしれない。内側からじわじわと侵食していき、取り返しのつかなくなる前に消してしまおう。

洗剤をもって再度ベッドに上る。湿らせたスポンジをあてがうと、しみは急激に形を変化させた。顔程度しかなかった大きさが二倍に膨れ上がっている。やはり素人の手でどうにかするものではなかった。諦めて業者に頼むしかない。中性洗剤で落ちそうなものなのだから、きっとプロならきれいさっぱり落としてくれるだろう。

スポンジをしみから離し、新しい形に生まれ変わった様子を見つめる。気味の悪い歪な形。ちょうど枕の真上になる。
しばし悲嘆に暮れていた。どうあがいても人の手を借りないとどうにもならない不条理さに腹が立った。私のもの。私の部屋なのに。何もしないとずっと居座り続けるのだろう。これ以上対峙し続けるのは限界だった。
水性ペンと迷ったが、滲みにくい黒のアイライナーにした。頭を枕側と合わせてちょうど目線がぴったりくるような位置にまで移動すると、天井に黒い丸を並べて二個描いた。その下に弧を描く。それからもう一度スポンジをあてがってそれをにじませた。書き加えた部分だけが浮き上がらないように微細な手間をかけて完成させる。

枕に頭を置いてしみを見上げると、それと識別できるまでに目が合った。スポンジを台所に戻し、アイライナーは化粧かばんにしまった。

「顔みたい」

私はとても満足していた。かつてないほどの勝利を期待し、早く明日の朝になればいいのにと願う。風呂場から彼女が出てくる気配を感じた。

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