呉はるか

こっちへいらっしゃい 怪奇とホラーの短編置き場

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最近の記事

車中泊

車線変更に失敗してタイヤを擦らせたのはこれで三度目だ。その度に彼は舌打ちを鳴らしてスピードを上げる。なぜ一度止まってよく考えないのかわからない。すり減ったタイヤの側面を思い、私はガラス窓に額を寄せた。 外は相変わらず暗いまま。出た時と変わらない夜の中をひたすらに走っているばかり。途中でトイレに寄るために一度止まった以外、ずっと走り続けている。 走る速度を上げればそれだけ窓の外の光景も早く過ぎ去る。元々暗い景色を楽しむあてもないのだが、それでもこの狭い車内で彼の苛立ちに感化

    • 桃のせっけん

      市外にある古い旅館に合宿に行った折り、先輩からこんな噂を聞かされた。 北側の離れにある浴場では、髪を洗う時は桃のせっけんを使わなくてはならない、と。 「桃?」 翔は訝しげに訊き返す。先輩の顔を見たが、冗談で言っているのかわからない。半ば困ったように緩やかな微笑を浮かべながら頷いた。 正直に言うと、嫌だった。 自分から桃の香りがするなんて。女子じゃあるまいし、湯上りに甘い香りを身にまとうなんて気持ちが悪い。体ならまだ譲れたかもしれないが、髪は嫌だ。 「どうしてですか?

      • 奥の座敷

        欄間の隙間から、地獄が見えるのだという。 奥の部屋に位置する座敷。縁側に面した襖の上にそれはある。 成人男性より頭一つ分ほど高いそこ。少し背伸びをしないとの覗き込むことは叶わない僅かな隙間。 和室らしく木枠で縁取られた障子の上。質素ながら丁寧な造りをした欄間は飽きが来ず、今まで一度も手を加えられたことがない。 家自体の築年数的にはもう半世紀を優に超えているため、昨年大幅なリフォームをしたにもかかわらずである。 父は一度だけ、どうせ直すなら新しくすれば、と家長の父つまり裕の

        • 剥製

          自宅の書斎には剥製がある。 私が十七の時に貰い、二十三の時に死んだ犬の剥製である。 ペットシェルターからやって来た犬は、小型でくすんだ白い巻き毛に短い足をしていた。垂れた耳と喉の奥から振り絞るような苦しげな高い声。犬特有の太い爪をかちかち鳴らし、頼りない足取りで私たち家族の顔色を窺うように歩いていた。 かわいいとは思わなかった。特に不安げな眼差しは私を苛立たせた。もともと弟が散々犬を飼いたいと願ったのだ。もちろん私は反対したのだが、残念ながら私の願いは叶わなかった。むしろ

          しみ

          天上にしみがある。 気がついたのは越してきた初日の夜のことだった。 よく内見の際に見落としたものだと、そのしみを見上げながら自分のぼんやり具合にもため息をついた。 真上に広がるしみ。顔の大きさくらいだろうか。電気をつけていないせいで、暗闇に紛れて余計に目立ち黒っぽい。豆電球を消してしまえば、いっそ暗闇に溶けて何も見えなくなるだろう。電気のひもは上体を少し起こさないと手が届かない。眠気と戦いつつしみを見つめていると、じわりと姿が形をなくしてきた。もういいか、と私は眠気に軍配