剥製

自宅の書斎には剥製がある。
私が十七の時に貰い、二十三の時に死んだ犬の剥製である。

ペットシェルターからやって来た犬は、小型でくすんだ白い巻き毛に短い足をしていた。垂れた耳と喉の奥から振り絞るような苦しげな高い声。犬特有の太い爪をかちかち鳴らし、頼りない足取りで私たち家族の顔色を窺うように歩いていた。

かわいいとは思わなかった。特に不安げな眼差しは私を苛立たせた。もともと弟が散々犬を飼いたいと願ったのだ。もちろん私は反対したのだが、残念ながら私の願いは叶わなかった。むしろ命を助けると思えといらぬ正義感を投げつけられた。大変腹立たしいのだが、結局その犬は我が家に来ることになった。

あそこまで言い募っていたくせに、弟は犬への憧れよりも友人と過ごす一日を優先し、選ぶ機会を逃してしまった。代わりに母が選んだ犬が、あの濡れ雑巾である。

「黒くて、足の長い大型の犬がよかったんだけど」

弟は言った。犬は足元をうろちょろしている。

「ペットシェルターにそんな高そうな犬がいるわけないじゃない。みんなこんな感じだったわ。まだましなほうよ」
「でもこいつ、このまま大きくはならないだろうなあ」

爪先で毛を撫でる。人形のように動かなくなった犬は、彼なりに自分の評価が芳しくないことを感じ取ったようだった。

「もう貰ってきちゃったんだから、ちゃんと面倒見なさいよ」

しかし弟は犬を無視した。
失格の烙印を押された哀れな子犬は、せっかく安住の地を見つけたのに、今までと大して変わらない待遇を受ける羽目になった。悪化していると感じることはないだろう。朝晩の夕食を一人で取ることができて、寝床も一人分使える。シェルターの職員たちが犬を犬なりに遊ばせていたのであれば、今の家でも勝手に一人で遊んでいるから及第点だろう。問題は散歩だった。

例の如く弟が隣に引き連れて周りの注意を引きたいのは、この痩せた犬ではない。称賛の道具として日夜夢見ていたのは、黒いトラックのようながっしりした犬だったのである。小さくて手足の細い犬はお断りであった。

母も母で何やら常に忙しく、父は朝早く家を出て夜遅く帰宅するので論外だった。で、余った私がかわいいと思ったこともない犬の散歩をする義務を押し付けられたのだ。犬は非常に賢いようで、リードをつけなくても私の後ろをちょこちょこついてくる。意地悪でたまに走ってやったり、わざと高いところへ上って見せる。どちらも年頃の私が毎日できる行為ではないが、犬はくーんくーんと悲しげに羨ましそうに私を見上げて、哀れな鳴き声を上げるのだ。この小さな意地悪は母にばれたことはなかった。もしくは見逃しているのかもしれない。どちらにしろ犬は帰宅をすると、満身創痍の面持ちで玄関にへたばる。母にはそれが好意的な疲労感によるためだろうと判断した。

序列をつけたがるのは生物の性であるのか、犬の頭の中にもあるピラミッドの最下層は、当然の如くいないも同然の弟だった。次が父、私と母が並んで頂点にいるといったところだろうか。そのため私の言うことは聞くが、弟に対してはまるで別の犬のようだ。歯をむき出し低いうなり声をあげ、あからさまな威嚇をすることもしばしば。そうなるともう弟は面白くない。

「せっかく俺が貰ってきてやったのに、こいつは俺が嫌いなんだ」
「世話もしないくせに好きになってほしいってこと?それに貰ってきたのはあんたじゃなくて私よ」
「俺が提案しなかったらそもそも貰おうなんて思わなかっただろ。どっちでも同じだ」
「かわいそうに。ねえ」

母は私に相槌を求めた。私はそうねとあくび交じりに同意をする。

何度言ってやっても弟は犬を世話することはなく、それなのに被害者ぶるのだ。愛情の等価交換という基本的な条件も知らずに、犬は犬だから誰でも尻尾を振ると思っているらしい。そんな甘い考えで接しているからこそ牙をむかれる。弟はいまだにそれを理解していないようであった。私と弟は特に仲のいいわけではないのだが、先に生まれた宿命としてそういった部分も含め大目に見ていた。しかし犬にまでそういった気概を求めるのは筋違いというものである。

あいかわらずかわいくない犬だが、弟の無神経に犬なりに反抗しているのだ。吠え散らかすことは多々あるが、噛みつくなど危害を加えることはない。私が同じような仕打ちを受けていたらと考えると、犬は相当忍耐強いようである。

犬はたびたび私の寝床にも侵入してきた。

私は身の丈に合うベッドを使っているし、ふかふかの柔らかな敷布団は私が体を横たえればもう定員オーバーである。犬にあけてやるスペースなどありはしない。実を言うと私が足を曲げてやれば若干の隙間は生まれるのだが、そう毎日毎日同じ体勢で寝るなんて窮屈そのものだ。

仰向けになって寝ていると、犬はひょこっと顔を見せて私のベッドを見回す。それから周囲を一回りしてから、私の顔の近くにわざわざ鼻づらを押し付けるのだ。犬の濡れた鼻は私の頬をぺっとりと湿らせ、両腕で顔を覆うと鼻でどかそうとする。

「やかましいなあ」

ぼそっと呟いて目を開ける。横目でそいつを見てやると、いつものようにかわいそうな高い声で寂しさを訴えるのだ。
なおも無視しているとそのうち諦めて、犬はとぼとぼとベッドから離れる。垂れた耳が後ろからでもよくわかる。ずっと若い子犬のくせに背中の丸みは老犬のようだ。

「ああ、もうっ。こっちおいで」

やけになって私が声を上げると、ピンと耳が立ち上がり喜ばしそうな速足で戻ってきた。尻尾をぶんぶん振って来る。私ははじめて見た時あまりにも早く左右に動くので、こいつは病気ではないかと勘違いした。それが喜びの度合いを示すメトロノームだということは、母に教えられて知るに至った。

ベッドの真ん中でぬくぬくとしていた私は、本当に仕方なく犬に右側を譲ってやった。狭いし身動きがとりにくい。しかもこいつは熟睡すると私の体に自分の体を乗せてくる。腹が立つのですり抜けてから逆に私が体を乗せると、犬は幸せそうな顔をしたまま目を覚まさない。年上の私がこんな子犬に苛立つなんて情けない。しかしどうにも重たいので、こればかりは抑えようもない。母はそんな私たちを見て、いつも機嫌がよかった。

はあはあと口で息をするから口がくさい。締まりなく垂れた舌がだらしない。
最も一番嫌いなのは体毛の匂いだ。こればかりは我慢ならない。見かねて絡まった毛を梳いてやると、自分こそこの世で一番幸福な犬だとばかりに息を荒くする。なぜ自分で毛づくろいをしないのかと不思議に思う。自分でできるようになれば、母に丸洗いされることもないのに。

声が風呂場のスモークガラス越しに聞こえる。勢いの弱いシャワーの音とともに、くーんくーんと鳴いている。あんな狭い水場に私も行けば、とばっちりはまず間違いない。締め切ったドア越しに様子を伺う。シャワーの音が止めば、もうじき犬の大洗浄が終了するので、じきに扉が開く。勢いよく犬が飛び出す。それを私が追いかけ捕まえ、そして乾かしてやるのだ。母が大きめのタオルを持ってやって来るので、犬を捕まえたまま引き渡す。

「ありがとうね、だいぶ乾いてるわ。さあ、仕上げはお母さんに任せて」

いつもの手順なのだが、犬はいつまでも小さいままではない。そのうち私の力では到底太刀打ちできないくらい大きくなった。
小型の犬種のくせに、成熟した歯は太い。強く噛まれれば皮膚を貫通するだろう。噛むな、噛むなら甘噛みにしろ。私は常日頃それを教えてきたので、成犬になっても被害者は出なかった。たまに弟を本気で噛んでやろうかと怒っているような顔を見せたこともあったが、母や私の叱責を恐れてか、弟の皮膚はきれいなまま保たれていた。

「あんたももうちょっと大人しくしてりゃあ、弟にも好かれるのにね」

弟のベッドに寝ころびながら私は犬を見下ろす。犬は弟の部屋に侵入することはあっても、ベッドには決して上がらない。私は知らないが、おそらく子犬時代にこっぴどく怒られでもしたのだろう。私ももちろん勝手に入れば怒られるが、あいつは学生で日中いないのでその間は好きにできる。前にどうせ気づかないだろうと思って消しゴム一個を拝借したのだが、いまだに向こうは気づいていない。よって犬がベッドに上がろうがそこで寝ようが気づくはずはない。にもかかわらず、犬は律儀に言われたことを守っている。

私の言葉を理解しているのかしていないのか、犬は小首を傾げてじっと見ている。時折部屋の外から聞こえる物音にびくつく仕草を見せる。「お母さんだよ」と指摘する。しばらくして本当に母が一階から上がってきて私たちの様子を見に来るので、犬はあからさまに「なあんだ」とほっとした顔をする。犬は物を言わないが、その代わり表情が豊かだった。

家族は犬の表情で感情を見ているようだった。
だから異変もすぐに見抜いた。

まだ六歳になるかならないかという遊び盛りに、唐突に病院の行き来が増えた。はじめは一体なぜという疑問が私の頭をいっぱいにさせたが、やがて夜に耳元で聞こえる荒々しい息遣いで、これは尋常じゃないと理解した。
はあはあという口呼吸の合間に、ぜえぜえと痰の絡んだような浅い息を吐く。滅多に吐かない犬が戻すことが増えた。まったくもって何の病気だか見当もつかず、母に病名を聞かせてもらってもよくわからなかった。つまり私はもちろん、母や弟も罹らない犬特有の病気らしい。

その時が来るまで、私は犬が死ぬという未来を予想できなかった。

母は病気がかなり進行してぐったりした様子の犬を抱え、家を飛び出した。私も後を追いかけたのだが、「あんたは待ってなさい」と言われてしまい、気を揉みながら留守番しなくてはならなかった。

陽が沈んでも母は戻って来ず、夕方に腹を空かせて帰って来る弟もまだ姿を見せない。そろそろ私の空腹も限界になった。いつもは母がちゃんと用意してくれるのでそれを待つのだが、戻ってきそうもない。いっそ先に食べてしまおうと私の好物が置いてある棚を物色していると、がちゃんと玄関が開く音がした。

急いで出迎えると、母だけでなく弟も父もそこにいて、みんな目を赤く腫らしている。その表情で私は悟った。母は泣きながら空になった両手で、私をぎゅっと抱いた。まだ微かに犬の匂いがした。

なんとなく、私のほうが先に死ぬだろうと思っていた。先に生まれた私は犬よりもはるかに長く生きてきた。成犬になり丈夫に育っていくのと対照的に、日に日に私は足腰が弱くなってきていた。
いつも犬と寝ていた私のベッドは、今さら一人で貸切るには物足りなかった。犬の体の重みが恋しいと感じていた。

寂しさに耐え兼ね黙って弟の部屋に忍び込み、そのままベッドで寝てしまう。物音で目を覚まし、まずいと思って飛び起きる。弟は私を怒ることもなく黙って勉強机に座っていた。犬をかわいがる様子のない弟でも、喪失の痛みを感じているのだろう。

犬が死んで二か月ほど経ったとき、母は私を父の書斎に呼び出した。

父の職業は何かの学者で、家に構えた書斎は本だらけだ。地震で倒壊し、私が下敷きになることを恐れ、私がそこに行くことは禁じられている。
はじめて足を踏み入れたそこは、頭上数百メートルを覆う巨大な棚で四方を囲まれていた。そのほぼすべてに本が敷き詰められており、確かに崩れたら命は危ないだろう。好奇心と恐怖心を抱えながら中へ進んでいくと、棚の一番上に犬がいた。

「えっ」

思わず声を漏らすと、母は私がそれに気がついたのを知り、私を抱えた。

「ほら、生きているみたいでしょう」

そっと近づいて鼻づらに触れる。いつものぺとりとしたぬるい湿り気はなく、からからに乾いている。体毛は洗いたてのようにシャンプーの匂いのままだ。ぴったりと閉じた口が開き、はあはあと息をする気配もない。剥製だった。

「急にいなくなっちゃって、みんな寂しくてね。でもほら、これなら側にいるみたいで安心するでしょう」

母は犬を見ている。愛情深い瞳には、いまだに悲しみが宿っている。母は一番犬を大切にしてきた。私も面倒を見てきたが、私だって母の庇護の対象なのだ。愛情を受ける側である。母の悲しみが痛いほど伝わり、それが犬の骸を永遠のものにさせたのだ。

私を抱いたままの母の腕が伸び、犬の剥製の真横に下した。まるであつらえたようにそこは私の体にぴったりだった。広い書斎を一望した後母を見下ろす。悲しみの瞳のまま、母は私を見つめていた。

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