奥の座敷

欄間の隙間から、地獄が見えるのだという。

奥の部屋に位置する座敷。縁側に面した襖の上にそれはある。
成人男性より頭一つ分ほど高いそこ。少し背伸びをしないとの覗き込むことは叶わない僅かな隙間。
和室らしく木枠で縁取られた障子の上。質素ながら丁寧な造りをした欄間は飽きが来ず、今まで一度も手を加えられたことがない。

家自体の築年数的にはもう半世紀を優に超えているため、昨年大幅なリフォームをしたにもかかわらずである。
父は一度だけ、どうせ直すなら新しくすれば、と家長の父つまり裕の祖父に言ってみたのだが聞く耳を持たなかったらしい。

「あそこは地獄が見えると言われてるから」

と、祖父がぽそっと言ったのを、裕は今でも覚えている。
一体いつから言われていたのか、もうすっかり誰も覚えていないのだが、気がついたらそんな話が親族の中で共通の認識になっていた。

「地獄ねえ」

欄間を見上げながら、叔母の朝子が顎をさする。眼鏡が下にずり落ち、鼻柱で止まる。

「おばちゃん、信じてるの?」

縁側に座り込み庭に顔を向けて本を開いていた裕は、さっと立ち上がり朝子に並ぶ。もちろん裕には欄間に目が届かない。朝子も手を伸ばさないと、その隙間すら感じられないのだが。
そもそも朝子はずっとこの家に住んでいるのに、今さらその言い伝えを知ったらしい。
少女時代に聞こうものなら、絶対に見たいと背の高い欄間を見るために危険を冒す。それを危惧した家族があえて秘めていたのかもしれない。
朝子の目が裕を捉える。瞳に愉快さが混じっていた。まずいな、と直感し取り繕うようにぎこちなく切り出した。

「言い出しっぺが誰だかわかんないんだよ」
「誰だかわかんないところがいいんじゃないの」
「どういうこと?」
「つまり、そんなに古い時代のことなのに、まだ信じられてるってこと。それって、本当ってことじゃないの?」
「おばちゃんは見たことあるの?」

朝子は首を横に振った。

「ないんじゃん」
「きっと条件があるのよ」
「条件?」
「たとえば、丑三つ時とか」
「うしみつどき?」
「夜中の二時から二時半までのこと」

うえ、と裕は嫌そうな顔を見せる。

「真夜中じゃん」
「そういう時間帯に出やすいって、クラスの子から聞いたことないの?」
「何が出やすいの?」

すると朝子は両手を仰々しく顔の前に垂らし、指先を下にしてぶらぶらさせた。顔をしかめ、裕は首を横に振った。

「最近の子どもは怖い話せんのかね」

はあ、と呆れたように息を吐く朝子。思わずむっとして、裕は朝子の手を弾いた。

「いったあ」
「幽霊なんか見たことないし。地獄だって信じてないもん」

幽霊は視認できれば恐ろしい。が、実害がどれほどのものか。彼らは往々にして何もしてこない。ただ存在を明らかにさせて、動かない石のように佇むだけ。それを恐ろしがるのは人間の脳のせいだ。
そもそも見えなければ意味がないというのに。仮に見えたとして、影や石だと判断してしまえば怖くない。

「夢のない子ねえ」

なら、と朝子は欄間を指し示した。

「あんた、幽霊とか怖くないんでしょ。ならこの欄間、覗いてみてよ」
「おばちゃんはどうするの?」
「あたしは覗くよ」
「丑三つ時に?」
「うん。真夜中なら見えちゃうかもね、地獄」

そうは言いつつも、朝子は信じていない様子。その証拠に、にんまりと歯をむき出して笑ったからだ。怖いものをそれと知りつつ挑戦する人間は、そんな楽観的な笑みを漏らしたりするものか。

裕は困惑した。正直に言うと、嫌だ。

いくら幽霊なんか信じてない、地獄などないと主張をしたとして、じゃあ怖くないかと言うと、それもまた別の話というもの。怖いものは怖い。ただそれだけだ。
けれど朝子の提案を拒否すれば。きっと、裕って怖がりねと笑われてしまう。どんな言い訳を考えたところで、朝子はその答えに辿り着くだろう。そして声を立てて笑って、家族のみんなに言いふらすんだ。
そう思い至ると、裕はいよいよ覚悟を決めねばならなくなった。

欄間を見上げる。

裕の身長では、外から漏れ出る陽光の光が格子型になって反対側の襖に反射していることで、その存在を認知できる程度。たぶんあるんだろうが、それがどのくらいの隙間を持っているのか。

「届かないよ」

裕は言った。免罪符となって諦めてくれればいいけど、と祈りながら。しかし朝子はそれに対して驚かない。

「脚立使えばいいでしょ」
「駄目だよ。あれは柿をもぐ時に使うんだから。足のところ泥だらけで汚いんだから、家の中に入れちゃ怒られるよ」
「拭きゃあいいのよ。バカねえ」

あっと朝子はひらめいたように声を上げた。

「地獄を見るよりママのほうが怖い?」
「怖くないもん」

裕はとっさに否定した。にやにや笑う朝子の顔つきを見ると、ますます苛立ってくる。

「ママなんか怖くないし。怒られても全然平気だし」
「じゃあ決まりね。脚立使って見上げてみな」
「いいよ」
「ママには内緒にしておこうか」
「ばれたって怖くないけどね」

朝子はにんまりと笑って、小指を差し出す。きれいにマニキュアが塗布されているけれど、伸びすぎて地爪が見えている。

「指切りげんまん。約束をする時に使うおまじないみたいなものよ。破ったり嘘ついたりしたら、針を千本飲まなくちゃならないの」
「誰が?」
「約束を破った人が。つまり、あんたのほうがその可能性がありそうってわけ」
「破んないもん」

裕は堂々と小指をぴんと立てる。朝子がそこに自分の小指を絡めた。温かい皮膚の感覚と伸びた爪の冷たさに、裕はこそばゆくなった。

「ゆーびきーりげんまん。嘘ついたら針千本のーます。指切った」

ぽい、と放り投げるように指先が離れた。天井を見上げると、格子柄に影が濃く伸びている。

夕食の時、朝子はいつも遅れてくる。
大抵仕事が終わらずに帰ってくるのが遅くなるか、寄り道して帰ってくるか。飲んでくる時は母に連絡を入れているらしく、そういう時は最初から朝子の席に箸は置かれていない。お腹いっぱいにして帰ってくるくせに何か食べたいらしく、母は朝子のために夕食をちょこっと小皿に入れて冷蔵庫にしまう。それが大体週三回ほど。

今日は残業せずにまっすぐ家に帰って来た。朝子の手には通勤カバンと、外に置いてあった脚立。出迎えた母はぎょっとした。

「何に使うの、それ」
「何でもない。いいから、お義姉さん」

靴を脱いで脚立と一緒に玄関を超える。そのままの足取りで朝子は奥の座敷へ消えていった。母は後姿を眺めてから、一緒に出迎えた裕を見下ろす。

「あんた、なんか知ってる?」
「知らない」
「電球でも取り換えるのかしらね」
「そうかも」

朝子の部屋はこの前換えたばかりなのに。
母の心の中にある疑問。裕の白々しい嘘に気づいてしまったかも。
手に取るようにわかるが、なぜそれを口にしないのかはわからなかった。裕は母の顔をそれとなく見上げる。奥の間をじっと見つめていた。

「お母さんさあ」

母は顔を奥へと向けたまま、「何」と返す。

「奥の部屋のこと、知ってる?」

変な質問の仕方だ。
次いでもっと詳しく問い直そうとすると、母の顔がふっと裕に向いた。二つの窪みが裕を捉える。
黒い瞳は虚空のようで。ぎょっとしてまばたきをすると、いつもの母の表情が怪訝そうに自分を覗いているだけだった。

「知らないわよ」
「ほんとに?」

たぶん母は裕の言葉を聞いて悟ったはず。
朝子は奥の座敷へと行くのだと。欄間の隙間を覗き込んで、祖父の代から続く謎をその目で見ようとしているのだと。

外から来た母はあの隙間を覗いたことがあるのだろうか。朝子のように好奇心に負けて、夜中の二時に一人で上を見上げたのだろうか。

「ほんとに知らないの?」
「しつこいわね。知らないったら」

母の声は単純で何も伝わらなかった。知らない、と言った以外に何かが秘められているのはわかるのに、それが何だが裕にはわからない。

「明日って晴れかしら」

玄関の小窓から覗く外を見つめながら、母は言った。家の中のオレンジの蛍光灯が眩しくて、余計に闇を感じる。

「そうなの?」

裕が訊ねると、母は首を傾げる。

「月と星がきれいに見えれば、明日はたぶん晴れね」

あとは鍵を持った父が帰ってくるだけ。母は素足で土間に下り、内側から鍵を掛けた。それから小窓に顔を近づけ、ガラス窓越しに空を見上げる。

「あら、月がきれい。晴れるわ」

振り向いて裕に笑顔を向ける。こっちにおいで、と手招きをしたので、靴下のまま下りた。母に並んで夜の空を観察してみるが、摺りガラス越しに見えるのは仄明るい月の影だけだった。

夕食の時もその後の団欒の時も、朝子は一度も裕にそれらしい目配せ一つしなかった。いつものように父に軽口をたたき、仕事の愚痴を母に零し、ぼんやりしている祖父にため息をつく。裕に対してはテレビを見ておもしろいね、と笑いを共有する程度だった。
脚立を持ってきたはいいが、やはり裕には行かせなくていいか、と思い直したんじゃないだろうか。そう思うとほっとした。
やがて就寝の時刻になると、まず祖父がリビングを引き上げる。次いで裕。朝子や母は最後になることが多い。

「おやすみなさい」

裕がリビングに残っている大人たちにそう言うと、テレビを見ていた両親は顔を上げて返事をする。朝子だけは画面に目を向けたまま笑っており、裕の声を聞いていなかった。
やっぱり朝子は裕を誘わないだろう。一人で向かって、奥の間の欄間を見上げるに違いない。
一人でさせることに罪悪感はあるが、それでも自分が怖い思いをするよりはまし。それに朝子は怖がりじゃないんだから、変なものを見てもふうんで終わるかもしれない。
そう言い聞かせ、裕はベッドに身を横たえまぶたを閉じた。

体を強く叩かれ、裕ははっと目を覚ました。
薄暗い室内に、暗い影が覆いかぶさる。ぎょっとして目を見開くと、目の前に朝子がいた。眼鏡の縁が光っていて、それだけで朝子だとわかる。藍色のパジャマが輪郭だけしか見えないけれど。

「起きた?」

しっかりと目が合っているのに、朝子は訊ねる。

「何?」

起こされて不機嫌なのと、朝子が無断で自分の部屋に入ったことと、これから彼女が口に出すことを想像し、裕はそっけなく言った。
朝子は低い声で笑う。

「何って。行こうよ。約束したじゃん」

裕が渋る仕草を見せる前に、体にかかっている布団をはぎ取る。急にめくられると心もとなくなる。裕は上半身を持ち上げてはがされた布団を奪い返そうと手を伸ばした。
だがそれを制し、朝子はくるっと布団を丸めると、ぽいとベッドの外に捨てた。手が届きそうな距離にあるため、限界まで伸ばす。朝子はそれをからかうように、足で布団をさらに遠くへと蹴った。

「何すんのさ」
「だから行こうって。そしたら返してあげるからさ」

もはや言うことをきかないと、布団を取り上げられてしまうかも。裕はそう判断し、ぐっと唇を合わせた。

「怖いの?」
「怖くない」

とっさに答える。嘘。本当は怖い。けれど朝子に聞かれると、どうしても強がってしまう。それから朝子の手口に引っ掛かったと後悔する。
今もそうだ。朝子の笑顔が目が慣れた暗がりにはっきり映る。
裕はベッドから足を出した。今さら弱気になれなかったから。

静まり返った廊下は暗く、足元がおぼつかない。自分の家なのに恐怖で身が竦む。見えないからこそなおのこと。きしむ家鳴りが空を跳ねて、闇の中に消えていくよう。
にもかかわらず、朝子はさくさく進んで行ってしまう。後ろからついて行く裕のことなどお構いなし。そんなに簡単に歩いていけるのなら、一人で行ったっていいじゃないか。
裕は何度も黙って引き返そうとした。強がりがそれを押し留めるせいで、裕の足は歩き続けるしかできなかったのだが。

やがて奥の間へと辿り着いた。

朝子は襖を開けて中に入った。電気すらつけない。廊下に立ったまま裕は迷った。朝子の笑った目がこちらに向きかけ、裕は慌てて後に続く。
いつもの部屋と違うと言えば、部屋の内側に脚立に組み立ててあることくらい。開け放たれた部屋には外からの月の光が漏れて、埃が光って見える。

「そういえば、心霊写真のオーブってカメラに反射した埃って知ってる?」
「知ってる」

オーブがなんだかわからないが、裕は何食わぬ顔で頷いた。
一瞬朝子の顔が裕を見下ろす。片方の眉を持ち上げたその表情は、今の発言を面白半分に疑っているかのよう。むっつりとしたまま裕は腕を組んで、その顔に答えない。

「さて、あんたは脚立の上のほうまで登って。あたしはそのちょっと下の段に足を引っかけるから」

そう言うと、朝子は裕の背中を押した。
畳の上で不安定な脚立に手をつきながら、裕はちょうどいい位置まで登る。やがて欄間が目の前に迫って来た。今まで反対側の障子に漏れる光の格子でしか、その存在を認識できなかった欄間。
思わず目を近づけようとしたのを、朝子が手で遮った。

「待って待って。せーので見るのが普通でしょ」

手で裕の目の前を隠しながら、朝子も脚立に片足を乗せる。重みが片方に寄り不安定になるので、裕はその反対側に体重をかけ、倒れるのを防ぐ。
朝子の体が安定したところで、二人は顔を合わせた。至近距離で朝子の眼鏡の奥の瞳がさらに好奇に輝いて見える。

「じゃあ、せーので覗こうか」
「うん」

もうこうなったらぱっと見てすぐに目をそらす。朝子に気づかれないように下を見ればいい。裕ははあ、と息を吐き、目の前の手のひらが外されるのを待った。

「せーのっ」

さっと手が外され、目の前に欄間が映る。裕は顔をぐっと近づけ、その隙間を覗いた。

あっと思い、すぐにそらす。

下を見ればいいのだ、という決意は簡単に崩れ、裕は目を丸くして朝子の横顔に目を向ける。
朝子はじっと欄間の隙間を覗いている。室内の埃が朝子の肌の周りを漂っているのがよく見えた。
横から見えるその瞳が何を映しているのか。裕と同じなのか。または違うのか。
そわそわしながら朝子を見つめていると、ふいに顔が欄間から遠ざかり、朝子は脚立を降りた。途端にぐらついたので、裕も後に続く。
畳の上に両足をつけてから朝子を見上げると、朝子のため息をとともに目が合った。
つまらなそうな瞳。見るからに落胆している。

「嘘じゃん」

朝子はがっかりしたように言った。

「なーにが地獄が見えるよ。真っ暗で何も見えなかったわ」

やれやれ、と大げさに手を振り、朝子は脚立を片手で持ち上げた。
向かう時と異なり、だらだらとした足どりで部屋を出る。裕も続いて部屋を出た。

「これ、外に返しに行くのめんどくさいなあ」
「玄関に置いておいたら?」
「そしたら兄ちゃんに何に使ったんだって聞かれるでしょ。返すわよ」

朝子は物置に向かうべく、裸足のまま縁側を出た。

「懐中電灯持ってこようか?」

裕が訊ねる。朝子は足を止めずに首を横に振った。

「いい。月があるからよく見えるわ」
「わかった」

縁側に留まり、裕は朝子の後姿を見つめる。
家の中にいても、朝子の藍色のパジャマが色まではっきりと見える。眩しいくらいの満月。母の予想通り、明日は晴れるに違いない。
裕は所在なさげに両腕で体を包み、寒くもないのに抱え込んだ。いくらお金を渡されても、もう一度上を覗いてみようとは思えない。

部屋の内側から覗いたのだ。月明かりを正面に据えたのに真っ暗なんて、あり得ない。

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