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優しさ いい人 思いやり


“優しさ”の芽生え

ひじ打ちを喰らわした。
そして
その反応を楽しんでいた。

 僕の“優しさ”の芽生えはサイテーでした。


小学2年のころ、
F君に暴力を振るった。
痛がり嫌がるF君の反応をおもしろがった。

ふと、F君の顔を見る。

すると、突然、
こころに痛みを覚えた。


本当に痛かったのはF君。

でも、
僕の心も痛みを感じた。


それ以来、
人に暴力を振るったことはない。

 この経験は、
 僕の小さな小さな“優しさ”の種になった。


美談っぽく書きましたがサイテーでした。


閉じ込めた“自分”と“優しさ”

それから成長するにつれ
家庭環境もあり、
僕は現実から逃げまくるようになります。

 それでも逃げられないもの
 “自分”


なので、
僕は“自分”を“こころ”の奥にしまいこみ、
鍵をかけた。

 “優しさ”も一緒に、、、



その頃を思い出すとき、
必ず後悔することがあります。

僕は、
大好きだった愛犬と一緒に育ってきました。

でも、
その愛犬も年には勝てず、
年老いて寝たきり状態になってしまいます。

僕は、
大好きだったはずの愛犬からも逃げた。


 僕にとって生きることは、
 現実から逃げること、、、


“優しさ”に鍵をかけていなければ、
年老いた愛犬に
よりそってあげられたかもしれない。

今でも、
思い出すと涙がでます。


“いい人”という鎧を身に纏う

僕は、
現実から逃げ、
“自分”と“優しさ”を
“こころ”の中に閉じ込めた。

 その結果、
 僕は“いい人”になりました。


“いい人”か“悪い人”か判断するのは誰か?
それは、他人です。

つまり僕は
他人の評価を軸に生きることになりました。


 “いい人”になるのは、
 僕にとっては楽なこと。

他人の評価に向き合えばよく、
“自分”に向き合う必要がないからです。


しかし、
“自分”を閉じ込めておくのにも
限界がありました。

押し込められて苦しむ“自分”が暴れ出す。

 外から、
 現実に責められ、
 他人の評価に責められ、

 内から、
 苦しむ“自分”に責められ、

僕のこころはズタボロになった。
体も不調をきたす。

そしてますます、
“いい人”という鎧で僕を守るようになった。


“優しさ”の芽生え 再び

僕は本当に運がよかったと思います。

とても良い出会いのおかげで、
“いい人”という鎧を脱ぎたくなりました。


鎧を脱ぎ捨て、
僕はこころの鍵をあけた。

 僕は閉じ込めていた“自分”を迎えに行った。


そこにいた“自分”は
幼なすぎたし、とても醜い。

けれど僕は、
たとえクソみたいな“自分”であっても、
繋がれたことへの喜びを味わった。

と同時に、
僕は“自分”の痛みを感じた。


 その痛みは
 自分への“優しさ”に育つ。

 さらに、
 人への”優しさ”に育つ。


思い起こせば、
人生初めての“優しさ”も
こころの痛みから実っていた。

本当の“優しさ”は
痛みを知ったときに実る
小さな種から始まるのだと思います。


“優しさ”のつぎに、、、

“優しさ”は僕から生まれるものです。
でも、
相手がそれを望んでいるとは限りません。

“優しさ”を発動すると、
その結果への責任が生じます。

相手が望んでいない場合、
かえって傷つけるかもしれません。

“優しさ”には、
その責任を引き受ける覚悟が必要です。

僕にはまだ、
その責任を引き受ける実力がありません。


そんな僕にできることは
“思いやり”かもしれません。


  “優しさ”は助けてあげること。

  “思いやり”は、
  相手の立場に立ってみること。
  そっと寄り添い見守ること。


幸いなことに、
“思いやるこころ”が育ちつつある
と思って(願って)います。


皆様の“note”を
読んでいると感じるこころの叫び。

その叫びが
“思いやり”の種になると感じています。


そんな“思いやり”の種をしっかり育てたい。

そして、
その“思いやり”をどう活かすか?
が今の僕の課題です。


 いつか、
 “優しさ”の責任を
 引き受ける実力を手に入れたい。

 それまでは、
 この小さな“思いやり”の種を
 育てて活かしたい。



そのためには、
どうすればいいのだろうか?




こんな文章を長々と読んで頂いてありがとうございます。

皆様の、“幸せ”と“思いやり”が育つことを願って、、、


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