読書記録|福沢諭吉 齋藤孝=訳 『現代語訳 学問のすすめ』
読了日:2024年5月26日
古くから語り継がれる名著には、未だ読んだことがないものが数多くある。その中から今回は『学問のすすめ』を選んだ。明治初期、教育者で啓蒙思想家、そして慶應義塾の創始者でもある福沢諭吉が書いた『学問のすすめ』は、当時、大ベストセラーとなり、これまで多くの人に読み継がれてきた。文語体で書かれた『学問のすすめ』を齋藤孝氏が現代語に改めてくれたおかげで、福沢諭吉スピリットは残したまま、現代の私たちにとってとても読みやすい文章となっている。もし「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、…」の文語体のままだったら、最後まで読むのは苦痛を伴ったかもしれない(笑)
この冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の一節を耳にしたことがある人は多いと思うが、この意味を誤って覚えてる人も同じく多いかもしれない。実際に書かれているのはこうだ。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の部分だけを以て、「天は人をみな平等に造ったのだ」と解釈されがちだが、続く文章を読めば、それとは真逆の内容として書かれていることがわかる。現代語訳を更に私語訳で端的に述べると「天は人類を平等に造ったとかいうけど、周りを見ると実際はそうじゃないよね」ということだ。そして福沢は続ける。「だから学問をやるんだよ」と。
「賢い人と愚かな人の違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなんよ。これははっきりしてること。だから、学問の力の差によって地位や富の違いが生じてるだけで、全ては己次第って話なんよ」
そんな風に読者に諭しながら、初編から17編にわたり、人間の権理(権利)、国をリードする人材とは、国民の役目、男女親子間、怨望による害悪、人生設計、判断力の鍛え方などを説いていく。
明治維新以降、日本がそれまでの文化を”古いもの”とし、積極的に西洋文化を取り入れ諸外国に追いつけ追い越せという時勢が生じた。しかし、この時代の人たちは単に西洋かぶれになっていたわけではなく、西洋文化も取り入れて強い独立国・日本を作ろうとしていた。それは第3編の”愛国心のあり方”で表現されている。
独立の気概がない人間は、国を思う気持ちもない
国内で独立した立場を持っていない人間は、国外に向かって外国人に接するときも、独立の権理(権利)を主張することができない
独立の気概がない者は、人の権威をかさにきて悪事をなすことがある
個人の独立心があれば、国も独立する、という意味だ。これにはハッとする部分があると思う。個人に於いても政府(日本という国)に於いても。今の日本にこの3つと逆の人物像、政治家はどれほどいるだろうか?現政権の対外国への振る舞いを見るにつけ、なんとも頼りない気持ちにさせられてしまう。そんな風に感じるのは私だけではなく、多くの国民が同じように感じてるのは支持率を見れば一目瞭然である。
そんな”ダメな政府”に対して国民が取るべき手段のうち上策なのは、「武器を持たず少しの暴力も使わず、正しい道理を唱えて政府に訴えること」だという。ただしその前に、ダメな政府は愚かな国民が作っていると福沢は指摘する。国に身を守ってもらいながら依存するところは依存し、都合が悪くなると自分の私利私欲のために法律を破る、そんな愚かな民を支配するには道理で諭すのは無理だから、威力で脅すしかなくなる。つまり、そうならないためには、「国民が学び知恵を付け、賢くなるしかない。物事を信じすぎてもだめ、疑いすぎてもだめ、正しく取捨選択をするために判断力も養うことだ」と言う。まるで時空を超えて福沢が忠告してくれてるようだ。
約150年前に書かれた『学問のすすめ』。今読んでもつい先日、福沢諭吉が執筆して出版したもののように感じる。これは現代語訳であることも作用してると思うが、不思議とこの時代の人物がこの時代を憂いてこの本を世に出した感覚を持つ。時代は変化しても、人の本質や国家の基礎というのはあまり変化しないものだということか。明治初期と令和初期、この国の国民がやってることに結局それほど大差はない。 だから、今でも『学問のすすめ』は読まれるのだと思う。
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