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読書記録|明智憲三郎『光秀からの遺言 本能寺の変 436年後の発見』

読了日:2023年10月9日

 「三日天下」「謀反者」と、とにかく”悪名高く謀反に失敗した戦国時代の愚かな武将”かのように、現代に語り継がれる明智光秀。彼は本当にそのような人物だったのだろうか?
 明智光秀の子・於寉丸(おづるまる)の子孫と伝えられる明智憲三郎氏が、その真実を解き明かすべく研究をし、執筆をした。この『光秀からの遺言 本能寺の変 436年後の発見』は彼の4作目の著書である。

 これまで、明智光秀の出自や信長に仕え上洛するまでの詳しい経緯については不明であった。摂津源氏の源頼光の子の頼国の子孫が美濃土岐郡に土着し、土岐氏を称したことから始まる末裔であるのは確かだが、その系図でさえそれぞれの資料によって光秀に至るまでの間がバラバラだ。
 本書はそんな明智光秀と彼が本能寺で謀反を起こすに至る経緯を探るため、<系譜編>と<生涯編>に大きく分けてそれらを解き明かしていく。
 今までの通説を覆すような部分も多くあり、読者のレビューの中には「著者の妄想だ」などと罵りに近いものも幾つかあったが(ここまで必死に否定する者は、ひょっとしたら歴史学者・研究家かもしれない…)、歴史…しかも約500年も前のことについて、確かな資料が複数にわたって存在しない限り(しかもそれが一切矛盾なくリンクしない限り)「絶対にこうだ」と言い切ることはできない。『光秀からの遺言 本能寺の変 436年後の発見』は、これまでに「この説が正解」とされてきたものを、改めて検証し事実を見出していく、そんな一冊だ。

 これまでの説を検証するにあたり、明智氏は、以下の二つの方法をとった。

仮説推論法…もっとも適切な(辻褄の合う)説明を、事後的に観察された事実から推論する方法
仮説検証法…実験や観察を通してデータ収集をし、 予測した仮説の真偽を確かめる方法

しっかりとした手堅い検証法である。

 本作品に書かれている内容を、受け入れ難いと感じるがゆえ「妄想だ」と切り捨てることは簡単だが、明智氏が提示する内容を否定し難く思う要素は、それを説明・裏付けできる証拠が提示さているからでもある。また、信長がいた時代にキリスト教の布教活動と通訳のために来日していた、イエズス会宣教師ルイス・フロイス(ポルトガルのカトリック司祭)による『日本史』がその裏付けの一手を担っている。
 ルイス・フロイスは、途中から日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられた。全国を巡り見聞も広め、記録したものが後に『日本史』と呼ばれる書物になる。戦国日本で武士とともに戦っているわけでもないイエズス会のポルトガル人が、記録を書き留めるのにその内容の中でどこかの武将に忖度をするとは考えにくい。そして嘘を書く必要も恐らく無い。そういった資料の検証はさることながら、これまでの定説とかけ離れたような消極証拠も洗い直し、その信憑性を確かめていく作業をしている。

 例えば現代、明智光秀という人物を歴史物の小説、映画などで描写する際に参考とされるのは、著者不明の軍記物(=物語に興味を持たせるために題材に空想を加えて書かれたもの)『明智軍記』、そして光秀の首を取ったとされる(これも光秀の首か否かは定かではない)秀吉が御伽衆の大村由己(おおむらゆうこ)に書かせた『惟任退治記』だ。
 前者は著者不明な上に、秀吉の死から約100年後に書かれた軍記物、後者は名誉を挙げたい”歴史の勝者”である秀吉が指示し自分の活躍を書かせたもの。これら2作品の内容全てに信憑性を見出す方が難しく思える。しかしながら、現代では当時のことや光秀という人物がこの2作品に影響を落とされたままでいて、通説として凝り固まってしまっている。そこに、周囲からの批判を覚悟で、明智憲三郎氏が今まで蔑ろにされてきた部分にスポットライトを当てた。

 歴史上の謎において、数多説かれる言葉のうち、何が本当かはその時代にタイムスリップでもしなければ”確認”のしようがない。現代人にできるのは、様々な物的証拠や仮説を用いて検証し、その可能性が限りなく高いものを採用することだけである。その採用されたものは、新たな発見や文明の発達によって別の説へと覆されることもよくあるものだ。
 『光秀からの遺言 本能寺の変 436年後の発見』は、読んでみて到底受け入れられないという人もいるかもしれないが、これまでの通説を一部でも覆すきっかけにもなるのかもしれない。

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