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高校数学は各単元がむすびついていきこれから身近なこと、おもしろくなるところでおわってしまう


はじめに

 どの学問分野もおなじかもしれないが数学はその極端をいくほうかもしれない。難解で抽象的な数や関数のそのさきにはじつはちがうせかいがひろがっている。しかもあらわしかたがちがうだけで各単元はむすびついている。

きょうはそんな話。

いっきに難解なせかいへ

 たしかに集合などとくらべて、図形の特徴をまなぶ幾何学や数のとりあつかいなどは千年、2千年の単位で過去のヒトビトの考察。やっと高2年生あたりでならう微積分の考えがまとまりつつあるのが500年ほどまえだし、確率などもその前後。集合などが比較的あたらしくて、19世紀の後半。

えんえんと歴史的な事象をまなぶ。というのも現代の数学は発達してそれをいきなり知ろうとするのはどの単元もやっかい。ほかの教科とおなじく基礎からまなびつみかさねていく。横道にそれるが英語なんかはその意味では順序がぎゃくかもしれない。いきなりゲーテやシェークスピアの時代の英語の歴史からまなぶわけではない。

教えていると

 児童や生徒たちといっしょにまなんでいると、算数や数学にとりくむとよく出る質問。それは「なんで数学を勉強するの?」だんだんむずかしくなるとそう言いはじめる。

だっておとうさんやおかあさんたちは家で数学をつかっているところをみたことないし、やったとしても家計簿つけるのに電卓でたし算、ひき算やたまにかけ算やるぐらい。なんでこんなむずかしいことやる必要があるんだろうとだれもが思うのだろう。

それはとうぜんそうかもしれない。「りんごが3つ・・・?」の問題からだんだんと抽象化し、しまいには何をやっているのかすら説明なしのまま解説がすすんでいく。これって何の役に立つのだろうと思うのもわかる。わたしもそうだった。おおかたの単元にかんして、じつにやっていることの意義や中身がわかりにくいし、とっつきにくい。

ところが。

大学以降でまなびなおしていくと

 高校の最後のあたりから大学以降でそのこたえが用意されはじめる。わたしは化学を専攻したが、実習や実験でさかんに数学でデータを処理する。むしろ道具としての数学。大学院のころに花ひらく。すくなくともわたしはそうだった。

ようやく高校レベルの数学をさかんにつかい、それでも不便になり、大学で習う偏微分やフーリエ変換を「これはべんり」と実験データの処理にさかんにつかいはじめる。

必要にせまられて。高校で習う範囲でいったんアップアップし、手いっぱいになったり、微分方程式から解を求められないとがくぜんとしたり…。さんざん「けったいな」数式に悩まされたさきに、大学の数学がおぜんだてされている。「それはね、ほら、こうするといいんだよ。」と、金科玉条のごとくニコニコしながら待っている。

じつに感動モノ。それまでの苦労がウソのよう。理系の学生たちの多くはようやくこれまでのわけもわからない数学の修行のような道のりを、そこでようやくふりかえれて感動する(しないかもしれないが)。ようやく高校でやってきた抽象的な内容の意味が、ようやく栄養がとどきエネルギーにかわるときをむかえたかのようにうごきはじめる。

つながりあっている

 わかりやすい例をあげると、連立方程式。中学生はxとyのふたつがあって解がもとめられることでていっぱい。これが一次関数の直線と結びつき、グラフから解けるんだよとしめすと「おお。」と声があがる。

関数と小学校以来の比例などのグラフ、その両方が結びついていると知る。「ほらっ、グラフの交点の座標がxとyの解なんだよ。」と説明すると大部分の生徒の顔が晴れやかな表情にかわる。

高校では単元からぬけおちて、こののち復活すると言われている行列で連立方程式のべつの解き方に接する。やっぱり各単元はつながっているし、数学ってある一面で、じつはやっかりなことをどうにか楽にべんりにとりあつかえないかとくふうするけっこう身近なことがらにもとづく学問なんだなと知れる。

よくわかったときのにこやかな顔。これを生徒たちはもとめてたんだ、ほしがっているんだとたびたび気づかされる。そう、生徒たちはじぶんのあたまのなかで咀嚼してみずからの栄養になるように、あたまのなかに整理してみずからのことばとしてとりいれ、つかえるようになりたい。

おわりに

 教える側はこうしたより具体的でみじかな要素のたとえや例をしめす、数式ばかりでなく「ことば」でもって説明できればなにより。

大学から大学院で「数学ってすばらしい学問だ。」とようやく気づけて、いまもあたらしい数学のせかいに惹かれつづけている。生徒たちがすこしでも晴れやかな表情になれて自信がもてるように教えていきたい。


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