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自分から本を読むようになる習慣はどうやってついていくのだろう


はじめに

 意識せずとも文字を追う。電車で窓の外をながめていても、ふとダイニングのテーブル上の広告やカタログでも。

こんなふうに文字をもとめるようになったのはどんなきっかけからだろう。

きょうはそんな話。

知ろうとする欲

 わたしたちはなぜ顔を洗い、歯をみがくのだろう。毎日そうしないときもちわるいから? そうかもしれない。まさに基本的な生活習慣。なにげなくやっている。ほかにもいろいろありそう。

知らずしらずのうちに身についている習慣。社会的な生活習慣とともにみにつく。社会のしくみを知るうえで、わたしたちはいつごろ文字に興味をもち、使いはじめるのか。

推測にすぎないが、母親の顔とそれ以外の顔を区別できるころにはそのスイッチが入り、「三つ子の魂百まで」のころにはじゅうぶん駆動している気がする。脳の発達にともない、文字や記号を識別できるからなのはまちがいない。

これにはあまり異論はないと思う。なにも早期教育の話をしようというのではないのでご安心を。じつは話の中心はそのさきにある。文字や文をつらねてたばにした本に興味が向くか否かについて。


歯をみがくように本を読むこと

 たとえばや読書会への参加。これらは保護者の方々の協力がいりそう。もちろん最初のひとおしになる場合もあるにちがいない。でもそれだけか。どうもさらにそののちに違いが生じると思う。

脳の発達にともない、からだを能動的に動かすことに興味や関心を示すのもほぼ同時だろう。くわえて周囲の環境要因が大きくはたらくはず。

全国の小中学校の朝の読書。1時限目がはじまるまえの20分ほどの本読み。児童・生徒に本に接する機会が与えられ、授業に落ち着いて臨めるといわれている。受動的で議論の余地はありそうだが、とりあえず本に接する機会となっている。

それとはべつに、本のさし絵にしか興味を示さない子が、図書室のスタッフのちょっとした声かけがきっかけで、「ハリーポッター」の全巻を読み通せるまでの習慣になった。これは実際のはなし。その一方で本に興味を示さないままのこどもも。


むかしがたりですが…

 ここでしばらく体験談をひとつ。学習サポートのなかで保護者の方々へ読書をアドバイスしている。親子とも本にしたしむチャンスをひろげると考えているから。

そんなことをしているわたしだが、のちにしめすまとめとは矛盾してると指摘されそうな経験から。

いまふりかえると両親が本を読んでいるのをほとんど見た印象がない。父はかろうじて新聞を目にしていた。母は長男のわたしが小学校の中学年まで家事に専念していたが、文字を読んでいる姿はほとんどなかった。

変わった母の行動

 のちに母もはたらきに出て、わたしたち兄弟は文字どおり「かぎっ子」になり、放課後はひまに。もちろん宿題やたのまれごとをそそくさと済ませて、原っぱで夕暮れどきまで近所の子たちと外で遊んでも、そののちは時間がある。家には弟だけ。母はいない。

彼女はここで学研の月刊雑誌の「科学と学習」を定期購読で買い与えた。単純なわたしは科学のおもしろさにめざめ、毎月やってくる雑誌をすみからすみまで読んでいた。ふたつちがいのおとうとはどちらかというと科学よりも学習の方ばかり。兄弟でもちがう。

くわえて父。ときどき小学館の「小学○年生」の月刊雑誌を買ってきた。ときにはどうやってえらんだのか「次郎物語」(下村湖人)や「コタンの口笛」(石森延男)など単行本や文庫本を買ってきた。

自分たちはほとんど読まないにもかかわらず、こどもたちには雑誌や本を与えていた。いまも手元にある「学習百科大事典」(学研全12巻)もそのひとつ。当時の父の月給からすれば、けっして安い買い物ではなかったはず。

友人の家に遊びに行くとおなじセットを持っていて、動物の巻が最初によれよれになっているのもおなじだった。


自ら本を買うように

 そのころには学校の図書館の書棚をひとつずつ読破するのを目標にし、それでもたらずに自転車で書店をめぐるほど。本をさがしまわるほどだからあきらかに自主的に読んでいる。

読んだ本を面接の場などで尋ねるのは、個人の信条にたちいるとされ慎むべきとされるが、ここはわたしのプライバシーに過ぎない。なにも咎められることはないのでここでは可能なかぎり公開。

はじめて買った本は「地球は青かった」(ガガーリン、日本語訳)。

あとはこづかいで買える程度だから文庫本がほとんど。単行本は高くてまず買えない。うえの本はお年玉やこづかいをためてようやく買えた。新刊の単行本では高くて買えず、文庫本になるのをくびを長くして待つ。そのころお気に入りの作家が何人かできた。

時代は前後するが、理髪店(同級生の親が経営)にいくと、ジャンプやマガジンなど週刊漫画雑誌の新刊が山のようにあり読み放題。髪を刈る順番がくるまでいかにひいきのまんがの連載を読破するか競っていた。

「橋のない川」(住井すゑ)を読むといいよ、と店主からアドバイスをもらったのはその頃。

そして時は経ち成人してふと気づくと、2週間で積むと1メートルほどの英語論文や数々の新刊の書物を読む仕事に就いていた。

さて、ここまで書いてこどもに本に興味をもってもらううえでヒントになることはあるか。 長くなった。話をもどしつつまとめよう。


保護者の習慣

 わたしは文字を読まないと気が済まない、きもちわるく(もはや病気かもしれませんが)なる。いずれにしてもきっかけがありそう。

てっとり早くは保護者自身が文字に親しみ、楽しんでいるとそのチャンスを増せると思う。こどもは親の行動をまねたい、自分もやりたいと思うのがつね。活発な子でもまんがを読んだり、ゲームをやったりするあいだはほんの一瞬でもじっとできる。

おかあさんがゆったりと本を読んでいる。わたしもそんなふうに読みたい、おとうさんが楽しそうに読んでいれば、ぼくもそうしたいと思えればいい。買っておいた本をさりげなく身近な場所に置いておくだけ。

こどもたちは世のなかを知りたい。虫や自然だっておなじ対象。新しくて、へえ~そうなんだと感動を味わいたい、もっと知りたいと思うはず。もちろん実体験がなににもまさるがその機会は限られる。本からだってまだまだ糧にできると思う。

おわりに

 勉強してもらいたい、本好きになってもらいたい親や周囲の人々の願いは、こどもが健やかに育つなかでいまもむかしもそれほど変わらない。

もちろん環境や情報に関するとらえ方はことなる。本に接する機会はどんなかたちでもないよりはあったほうがいいだろうし、あるに越したことはない。

こどもたちに自由に使える時間を確保するのは、じつは大人の役割かもしれない。

文字や本は人生を豊かにしてくれる。…してくれるはず。


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