見出し画像

研究上の迷い道に出くわすとき 出口はないかと行き来するとき


はじめに

 研究でよくありがちな、そしてここからさきにこそおもしろいものがみつかるときがある。学生たちといっしょに歩む道すがら、考えかんがえこっちにすすみ、あっちに寄り道。

きょうはそんな話。

しごとのなかで

 たいてい新しいことがらの研究に着手するとき、はじめのうちは先達の方々の方法をたどる。いいかえれば、荒野に踏みこむにしても先に一歩をすすめた方々の足あとをたどりながら。

これが卒論に着手したばかりの学生さんならば、授業や実習、つまり大通りを行き交うところからはじまり、わきの路地をぬけ、行き来の往来が確認できる踏みあとの草がすりへり、路面が露出するぐらいの状態のところに案内して、あとはひとりで周囲をさぐってごらんと、目のいきとどく範囲で1年あまりがすぎておわり。

修士、つまり博士前期ぐらいだとひととおり道のすすみ方を心得つつあるので、ここまではひとりでも来れる。木々に目印をつけながら帰り道を確保しつつすすめるようになる。とはいってもひとりだちにはおぼつかない。

それでも多少なりともじぶんで考えるという研究者の所作を身につけはじめ、こちらにそれなりにすじのとおった意見や提案をしはじめる。あきらかに変わりつつあるぞとこちらで感じとれる。

道案内は

 4年生の卒論のテーマでもたまに路地でうろちょろしているだけに見える程度の範囲にも新たな研究の原石がころがっているときがある。その場合にはたいてい「うまくいかないんですけど…。」と当の学生は困った顔をしつつデータを見せに来る。

ところがよくよく聞き出してみると実験操作にあやまりは見あたらない。そうなると予想がくつがえされたのか、もしくは実験操作にどこかこちらが気づかないあやまりがあるのか。学生といっしょにその研究上のご近所さんに相当する過去の論文をさがしまわる。引用につぐ引用、そして一次情報にあたるもとの出どころの論文にいきあたる。

そこの記述は重要。その時代における精一杯のデータがとれる手法で分析、測定されたデータがみつかる。かなりの精度と慎重さ。ほかの手法でもおさえてあり、データの正確さからは論文中に破綻はみつからない。ここはちがう。道をもどりつつ、わき道に相当する論文をさがしだす。

さがすなかで

 あれっ、この論文のDiscussion、どうやって結論を導いたんだろう。実験結果からはそうは言えそうにないんだけれど…。過去の手法のなかにはしぼりこむことはできても決定打になる方法でないものもある。

それを引用したべつの研究者が、もとの論文の絞り込んだだけの真っ当な解釈から、かなり強引にじぶんの主張の方に都合よくもっていくということがある。そのわな、つまり袋小路に誘い込まれることがある。

ああ、そうかこの手法にはこういった曲解が出だしのところにあるのか。わたしが山道の途中に、「こっちだよ」の案内板をたてることになる。これとてそこそこの論文になり得る。その論文を出す頃には、先ほどの学生はすこしだけ道をすすんでいる。つまりあらたに開拓したほうの頂上にいたる解釈をまちがっていない道をたどっている。

博士後期課程の学生になるとすでにほぼひとりであちこちの道を多少の行き止まりをもありうるのを承知でわしわしとすすんでいってはいきどまり、こっちはがけがあり、あっちには絶壁とじぶんで迷路の概略図がかけるほどに、つまりそのあたりの案内役になっていく。

おわりに

 こうした学生から院生、そしてひとりの研究者として巣立っていくようすをながめるのはしあわせなこと。学校に通いはじめて20年以上かかってようやくひとりで道を開拓していく。この6年ほどのあいだの進歩は目をみはる。かかわっていておもしろい。


関係記事


広告


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?