葉子

ものを考える。 個々の辞書の違いとか、さまざまなジャンルとかを繋ぐ通し穴とかをみつけて…

葉子

ものを考える。 個々の辞書の違いとか、さまざまなジャンルとかを繋ぐ通し穴とかをみつけて、その座標から覗く世界はとても面白くて、時折憂鬱で、次の地平をつれてくる。

最近の記事

つれづれ:水月湖

書きたいことは結構色々とあった。 通勤途中自転車こぎながら構成まで考えたりもしてた。 で、帰宅して、翌日のごはん作って風呂入って洗濯回して室内干しして家計簿とかつけて云々、気づいたら深夜1時とかになってもう頭働かない。翌日起きてもゴロゴロして何とか起きてマストの用事終わったらもう出発。 …だから塾講してたら年末年始はパートのくせに結構労働時間はフルタイムで、そのくせパートだから収入そんなじゃなくて(多分正規雇用の三分の一ぐらい)、外注の余裕もないわけで。 去年と同じよう

    • 年が暮れる前にとりあえず

      なんかもう精神的にダレてしまって、メリハリ効かない毎日を過ごした結果 時間はあっても有効に使えない(スマホ片手にダラダラ) →書きたいことがあってもつきつめられない →たとえつきつめても文章に起こす気力が沸かない というなんか色々残念な一年となった気がします。 いやそれなりに生産的ではあったんだけど。書く以外のとこでは。 そこそこ発見もあったし学びもあったし、でもそれを体系的に整頓するのをおざなりにしてる感はむちゃくちゃあるので、なんかとっちらかってます。 このnot

      • 規模と手段のはなし

        敬愛するロザンさんが、グローバリゼーションについてお話していた記念に。 という趣旨の事を宇治さんがおっしゃっていた。 もうホンマこれでしかない。 干渉を是とするか否とするかは別にして、現実問題こういうことをしようとしている。 そして、「勝手に家に上がられて冷蔵庫の中のものも自由に食べられるようにすると、ムッチャ食べるやつがおったら嫌じゃない?」という点において、一般的にこれは否であるという論旨で話は進んでいた。 正味、これを否とするかどうかは主観による。本当に困った人の

        • 一億総評論家のはなし

          以前、「文字に親しむ人口を増やす」にあたって、NOTEが「書く人口を増やす」ことに繋がるのではないかと考えたことを書いた。 ものを書く人口が増える→文字情報に触れる人が増える、書くために考えるひとが増える→イイ!となればいいな、と一瞬思ったけど、ほぼ同時に、ものごとはそう単純じゃないな、とも思った。 昔は「自分の本を出版する」というのは、実に名誉なことであったように思う。限られた資源、限られた出版社、その中で自分の名前を著書として本を出すということは、自分の作品が出版社な

        つれづれ:水月湖

          つれづれ:ヒトにおける搭載スペックとそっからのプログラミング

          独身時代から塾講をしていて、育児でブランク挟んで再開したのが6年前。 集団指導したこともあるけど、基本家庭教師や個人指導ばっかりだったので生徒の傾向などを観察しながら、試行錯誤しながらも柔軟にやってきた、つもりではある。 それでもやっぱり、サンプル数たった1の自分の視野でしか考えていなかったんだなぁと思わされることが最近多い。それは自分の子という、最も近しい他人のリアルタイムを観察しているからに他ならない。 サンプル数たった2とはいえ、我が子がそろそろ勉強らしい勉強をす

          つれづれ:ヒトにおける搭載スペックとそっからのプログラミング

          大根おろしに学ぶ外れ値のはなし

          寝なあかんのはわかっている。 そして考えてる内容がかつて書いたことあるかもしれんとも思っている。 それでも書かずには寝られそうにないので書いてしまうんだけど、息子に「後先考えて動けー!」ってどの口が言うてんねん、と自嘲せざるを得まい。 外れ値、という概念。 最大多数の最大幸福、という概念を社会のどっかでやったはずで、多くの国々や組織がこれを目標に邁進していると思われるのだけれど、ここからこぼれ落ちてしまう外れ値は何をどうやっても存在する。 外れ値ゼロの社会を作るとい

          大根おろしに学ぶ外れ値のはなし

          つれづれ:16か月ぶり!

          前回の更新は昨年の共通テスト直前。 その前はその前年の10月。 もうホンマ諦めた感がすごい。 正味、共通テスト直後は国公立二次試験対策でバタつき 一息ついたら働き方の整頓をして、そうこうしてるうちに地域の役職とかまわってきて、云々というのは全て言い訳です。 色々書いてみてわかったのが前回愚痴った内容でして、 「まとめるのが下手くそ」。 ひとつのことを記述しようとしたら、誤解を招かないようにその前提となる条件や思想を全部提出しておきたくなって、そしたらその条件や思想の前提

          つれづれ:16か月ぶり!

          ぐりぐり考えるにも程がある

          半年ぐらい放置してた… 基本的になんかしら考えてはいるんだけど、まとめられなかったのが主な原因。 で、元々ひとつのことを書こうとしても、細部のあれこれにまで考えが派生してメインの流れを阻害してしまい、優先順位をつけられず全部書こうとしてしまってしんどなったのも要因。 元々、箇条書きと長文の間ぐらいの長さが苦手ではある。 ミクシィだのウェブ日記だのの時代にバリバリ長文書いてたもんで、ほどよきところでまとめる訓練に欠けているのです。 頭の中は容量無制限やからどこまで思考

          ぐりぐり考えるにも程がある

          粋とポピュリズムのはなし

          やっと読書を再開できるようになってきた。 昔、短時間で教養をつける、と銘打って名著のあらすじだけを集めた本に対して「読書とは何なのか。このような効率主義は読書の楽しみを奪う本末転倒なものではないか」というような文を読んでまさにその通り、何のための本だよ、と思ったものでして。 特にそれが小説系のものであったなら小説家の苦悩をぜーんぶはぎ取り、効率主義商業主義という文学が目指すものの対極にある、本来の意義を失わせる、けしからんシロモノだと思っていた。 でも現実、大人になった

          粋とポピュリズムのはなし

          つれづれ:明日は発達支援センターへ。

          夏休み直前、耳鼻科検診で息子がひっかかり、紙を持って帰ってきたのですがそれによると行くべきは耳鼻科に行けではなく 「発達支援センター」 …おおう。ついにきた。 元々非常に個性的な息子ではありまして、両親ともに「あまりフツーの子ではなかった」という自認もあるタイプなので、サラブレッドなんやろなーとは思っていたのですが、年を重ねるごとにやっぱりそのへん他との差は顕著になっていくわけで。 でも現状、学校行ってもお友達と会っても、これといったトラブルは聞かないし、なんならトラ

          つれづれ:明日は発達支援センターへ。

          「〇〇ではこうだった」のはなし

          子供がよく言うやつですよね。「〇〇ちゃんちならOKなのになんで?」 で、親としては「よそはよそ、うちはうち」と答えるわけです。 だのに、色々はびこる言説としまして、「アメリカではこうです」「インドではこうです」「ヨーロッパでは」に対して、「そうだそうだー日本はこういうとこがダメなんだーそうすべきだー」と思考停止脊髄反射で反応するというやつ。 よそはよそなの。うちはうちなの。よそはそれを含んで、文化や経済や地理なんかの条件あわせて全体のシステムとしてそこそこ循環してるとい

          「〇〇ではこうだった」のはなし

          わかるとできるのはなし

          頭でわかる、と実際にできる、は別物。 これはは何も目新しい話じゃないんだけど、それこそ「わかって」はいても日々「そうだよなぁ、そうだよねぇ」と実感することばっかりです。 締め切りや重要度で優先順位をつける、優先させるものからやる、タイムスケジュールを組んで絶対に落とせないことをやる、面倒と思ったものから思い切って手をつければ後は意外とスムーズにいく… 実体験としてその通りなのは知ってる。なんなら実体験にあるぐらいだからやってもいる。でも今それをきちんとやれるかというと別

          わかるとできるのはなし

          優先順位のつけかたのはなし

          目の前にあるタスクについての優先順位は比較的つけやすい。 ・タスクの目的 ・目的のため、絶対に必要な手立てや準備(重要度) ・具体的な進行方法(時系列) を書き出し、十字を描いて四象限を作り、 タスクの目的をタイトルとして横に時間軸を取り、上下に必須度をあてがえば、優先順位は左上→右上、余裕があれば下に掘る、という手順が明確だからだ。 しかも自分が具体的に関わることなので、状況がわかりやすいし、自分の器用さだとかも考慮して、「自分にはどこまでが必要か」の把握がしや

          優先順位のつけかたのはなし

          つれづれ:イベントのうまりかた

          私の住む地域には、地域のコミュニティセンターのようなものがございまして。 公共のものですので、折に触れイベントが組まれたりするのですが、さほど広報するわけでもなく、回覧板にチラシが入ってたり、学校からもらってくるプリントに紛れてたりして、気にしてない限り気づかない人のほうが多いわけです。 公共のものですので営利目的ではない値段が設定されており、派手ではなくても、そこそこ子供たちが楽しめるようなものはこれまで積極的に活用してきました。大体イベントの二週間前から電話申し込みが

          つれづれ:イベントのうまりかた

          つれづれ:考えなくていいときに考える

          そもそも、エウレーカ!から始まり現代科学に至るまで、考えて考えて考えて…の最中で「ひらめいた!」ってのはあまり数がないように思う。 お風呂入ってるとき、目覚めてすぐ、走ってるときなどなど、考えることから少し離れて何かをしているとき、それまで考えて考えて考えて、のときに熟成された要素と要素が、自由運動の中でぶつかり合ってピコーンとなった、という例を数多聞く。 「はなしとして纏めてnoteに書きたい!」っていう内容も大概はそうで、長風呂してるときや自転車こいでるときなんかに端

          つれづれ:考えなくていいときに考える

          現代の焚書坑儒のはなし

          作品に罪はない、という言説をよく耳にする。実際そうだとは思う。 ただ、発表の方法はいろいろありまして。 コンプライアンスや潔癖性が求められる現代社会ですと、例えば太宰治とかが幼児向けに道徳の絵本を書いたとしてもボッコボコに叩かれて発表されないんだろうなぁとか…。現代社会の是非はおいといて、現実としてそうなるだろうなと思うわけです。 なので現実として今回、障碍者差別におけるムナクソを武勇伝としてその後のフォローもなかった人の作品が、障碍者の祭典に用いられるのは見送られまし

          現代の焚書坑儒のはなし