規模と手段のはなし

敬愛するロザンさんが、グローバリゼーションについてお話していた記念に。

「グローバリゼーションを強制的に推進するのは、乱暴なたとえで言うなら家に鍵をかけないでおきましょうというのと一緒」

という趣旨の事を宇治さんがおっしゃっていた。
もうホンマこれでしかない。

干渉を是とするか否とするかは別にして、現実問題こういうことをしようとしている。
そして、「勝手に家に上がられて冷蔵庫の中のものも自由に食べられるようにすると、ムッチャ食べるやつがおったら嫌じゃない?」という点において、一般的にこれは否であるという論旨で話は進んでいた。


正味、これを否とするかどうかは主観による。本当に困った人のための助け合いを重要視するなら、これを是としなくてはならず、つまり多少の欲張りには目をつぶるか、非常に細かいルールを設定してそれを行き渡らせないといけない。

そして話の中でも「田舎ではこういうところもある」という話が出た。
それが昨今「田舎は面倒だ、イヤだ」のメインの理由になっていたりもする。密な人間関係が重荷だ、監視されているようでしんどい云々。

ところが都会ではこうした直接の人間関係を省いた結果、より強い規制や監視が自分たちより上の階層によって実施される。監視カメラだったりなんだったりで、プライバシーの範囲は縮小され、その個人個人に対する情状酌量などは一切なく行ったことのみが明るみに出される。


どちらがいい、正義だ、ということではなくなっている。
こうなってくると個人の好みの問題に近い。

ところで、某政党の活動方針を見ていて思うのは、

「地域密着だととても頼りになるし強いけど、これを国単位で実施すると非常にしんどいなぁ」

ということ。

同じ自治会のなかで非常に面倒なことになった、こちらは(法令化はされていないけど)ルールに則って行動しているのに、先方がどうにも不合理なことをしている。または隣の地域の誰それさんと厄介ごとが発生した、地域の役所のこういうところが理不尽で改善してほしいのだけど一般人の意見など意にも介してくれずテコでも動きそうにない、云々。

こういうことの仲立ちとして、彼らの理念のもと迅速に動いてくれて「こちら側に立って」物事を運んでくれる。地域単位としては頼りになることこの上ない。

ところが、国政になると「こちら側」「あちら側」が曖昧になる。
彼らの理念に従うなら、たとえ公的なものが相手であっても理不尽と感じるものには徹底抗戦し、そうして実現しようとする理想は、我々の求めているものからだいぶ遠いところにある。

我々は「ほどほどの」生活を求めている。
完璧な生活など実現は不可能だし、自分にとっての完璧は誰かにとっての不全であって、自分と他人の立ち位置はいつ入れ替わってもおかしくないからだ。

翻って彼らには「理想」がある。
理論的な完全であり、それを実現するために小さなところから枠組みを構築しようとしている。その枠組みが少しずつ大きくなれば、全体としての完全を手に入れられる、そう考えている印象がある。
構成要素である人間が不完全なものであるという一点が唯一最大の破綻要素だとは思うのだけれど。

身の回りの規模間では非常に有益なものであっても、規模を拡大した場合必ずしも有益になるとは限らない。


「大は小を兼ねるというな、薪は楊枝の代わりにならぬ」

それぞれ適正サイズというものがある。
田舎サイズ、関わりあう人数も精々三ケタ前半、最悪数十キロ引っ越せばそこから逃れられる空間で適正な方針と、
都会サイズ、数十万数百万の人間がひしめきながら関わりあう人数は二ケタ、そう簡単に逃れられない規模ゆえに第三者の監視が必要となる空間で適正な方針はそれぞれ異なる。

それが地球規模になっている。
隣のオッサンが「コロッケぐらい自分で作らんかい主婦やろが」と怒鳴り込んできてイラっとするのとはわけが違う。まぁそれもそれで大概イラつく案件ではあるが。


そして田舎でも、代々伝わるいい決め台詞がある。

「よそはよそ。うちはうち。」

これを言えない環境・規模で、家の鍵を開けっぱなしにするのは危なっかしくてできやしない。

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