優先順位のつけかたのはなし

目の前にあるタスクについての優先順位は比較的つけやすい。


・タスクの目的

・目的のため、絶対に必要な手立てや準備(重要度)

・具体的な進行方法(時系列)

を書き出し、十字を描いて四象限を作り、

タスクの目的をタイトルとして横に時間軸を取り、上下に必須度をあてがえば、優先順位は左上→右上、余裕があれば下に掘る、という手順が明確だからだ。

しかも自分が具体的に関わることなので、状況がわかりやすいし、自分の器用さだとかも考慮して、「自分にはどこまでが必要か」の把握がしやすい。


ところが、当然他人であるとか未来であるとかの不確定要素が増えてくれば、これらの把握は難しくなる。抽象思考になってくると歴然とわかりづらくなる。

時折、漠然とした社会問題だとか哲学的な思考に憑りつかれて、ぐーっと考えるときがあるんだけど、杳として進まぬときは、この優先順位をつけそびれているからということが多い。

これは自分が「可能性」というバケモノを恐れすぎているせいだというのはよくわかる。

「可能性」は得体が知れない。全てのものに含まれているくせに、事前にはその割合を決定することはできない。しかも事後となれば結果論として、それは有か無かに収斂してしまう。

人間には扱いきれないバケモノを、それでも論を進めるときはある程度数値化して、数値の高いほうを「こうなるであろう」と仮定して踏み越えなければならないのだけど、私はそれがとても苦手だ。

なので、「こうなる場合」という可能性を無限に準備してしまいたくなる。

それをすると収集がつかなくなるのだけど、備えずには論を進められないのだ。備える手間でどちらにしても進まないことを考えれば、なんと臆病な、石橋を叩いて渡れない人間かとあきれるけれど、そういう性分なもので簡単には変えられない。

ひとつの社会現象についても、このように考える群Aがあり、とまで仮定したらその他の群は多くても3つ程度に抑えなければならないのだけれど、そこからどんどん分岐して、Aの変異型でA’はこのように考え、一方でA''も存在するだろうし、そうしたらこう考えるだろうし…とやりだしてしまう。正しくきりがない。

でもそれが正しく人間の実態なのだろうとおもうし、そう考えると正しく人間の動向を予測するだなんてまさに神の御業でしかないのだろう。社会学や心理学はデータや現象からの分析はできても、それを基として現在以降を予知することはできない。常に「今」はアップデートされており、それは過去のどれとも違うからだ。

わからないものをわかりたいという人間の欲は、そうやって時間軸によってストッパーをかけられている。それを振り切りたいと個人的には思うけれど、学問という体系がそれを振り切ってしまうのはなんだか人間の傲慢な気がするという、なんとも矛盾した、そして個人的にとても傲慢な心境。


なんてことをですね、敬愛するロザンさんが現状の問題を弁舌巧みに分析するのを見つつ、これぞまさに快刀乱麻を断つだなぁ、と思いながらコメント欄を読んで、その解釈の違いだとか立ち位置の違いだとかに愕然とした昨今ぐるぐると考えてしまいました。

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