一億総評論家のはなし

以前、「文字に親しむ人口を増やす」にあたって、NOTEが「書く人口を増やす」ことに繋がるのではないかと考えたことを書いた。

ものを書く人口が増える→文字情報に触れる人が増える、書くために考えるひとが増える→イイ!となればいいな、と一瞬思ったけど、ほぼ同時に、ものごとはそう単純じゃないな、とも思った。


昔は「自分の本を出版する」というのは、実に名誉なことであったように思う。限られた資源、限られた出版社、その中で自分の名前を著書として本を出すということは、自分の作品が出版社なりに認められ、狭い間口から世に広められるということであり、同時に自分の言葉に責任を持つということでもあったのだと思う。


現在は本を出版しなくとも自分の言葉は全世界に広まる。インターネットは世界をつなぐ。敬愛するロザンさんがyoutubeで言っていた表現を借りると(彼ら以前からあった言い回しなのは存じ上げてますが)「世界中にビラを貼る行為」として、ネット上にことばをアップするということは、可能性の多寡はあれど、どこかしらに自分の言葉を書いたビラを撒いているということになる。そしてこれがもたらす問題は、「発言の影響力にかかわらず、その発言をした人の正体は実は誰にもわからない」ということだ。


ネット上での自分の発言に責任を持つ覚悟で書いている人、つまり発言の根拠が正確かどうか、そして自分の生きている界隈とネットが発信する世界とがどれだけ乖離しているか考慮し、その発言が自分の手を離れてどう拡散するかを計算に入れて発言している人などほとんどいないと思っている。

そこを理解しておかないと、物事に対するネット上の意見を読む際にひどく事実誤認を起こす原因となってしまう。


これは決して発言の是非を問うものではなく、読む側のリテラシーの問題ではあるが、自分の世界とネットが孕む全世界性を同一視してしまう人のほうがやはり多いのだと思う。私自身、意識はしていてもどうしても身の回りに当てはめてしまうことが多い。それでも自覚のあるなしは大きな違いを生じるはずだ。


多くの人がネットを活用し、その中でも発言を繰り返す人がいて、玉石混交の発言がなされる現実がある。そしてネットの解析によって、自分が拾った発言と同傾向のものが多く表示される、エコーチェンバー現象というものがある。

まずその現実を認識しないと、認識に偏りも生じるしジャッジも誤ったものになってしまう。


ものごとを深く理解している人は、意図的に人を騙そうとしない限り、正しい発言をしようとする。

正しい発言をするためには慎重な物言いが必要になる。慎重に発言するためには、ものごとを一括りにすることはできない。丁寧に言葉を選ぶとどうしてもやや難解にならざるを得ない。ダントツに説明力のある人は易しい言葉で言い換えるが、それはそれで細かい事例を犠牲にしていることを知っておかなければならない。


何らかの事情で怒りや苛立ちを感じる人の発言は冷静さを失いやすい。冷静さを失うと過激になりやすい。多くのものを見落とした乱暴な理論になることが多い。

過激な発言は目を引くから多くの人が拾い読みをする。正しくとも誤っていても多く表示される。発言者の意図に関わらず、手を離れた発言は読み手の受け取り方に身を委ねることになる。リテラシーのある読み手はそれが過激であればあるほど慎重に扱うが、リテラシーのない読み手は自分の都合に合わせて恣意的に解釈する。


リテラシーは自然と身につく人もいなくはないが、普通は正しい知識と経験がないと身につかない。危険な言論をそれと見分ける能力は育てなくてはならず、現在の学校教育だけでそれを身につけられる割合はあまり期待できない。学校教育で学んだことをどれだけ覚えて活用しているかをイメージすればそれは理解できると思う。

かといって、こうすればリテラシーが身につきますよ、という一般的な手法があったとしてもその必要性を感じない人にはその手法は届かない。


ここが、全員が自由に使用できるネットの限界だと思っている。

この限界を突破したい場合、何らかの発言規制、も実は閲覧規制をかけるより他に思いつく方法はない。


ちなみに、発言者が有名人の場合なおさら始末に悪い。有名人というだけで「こんなに有名な人が言うならそうなんだろう」と虚実や正誤に関して思考停止に陥る人を多く生む危険性がある。

理性的な人間と感情的な人間には本来同数いるはずで、同等の権利が与えられているのに、理性的な人間が理論的な社会を牽引している現実がある。そうした人々は理性を信用しすぎ、感情的な人間の傾向を無視してしまっている。その歪みが構築した弊害が、こうしたところに出現しているのだと思う。

手がない人に手の筋トレはできないのは見てわかるから配慮されるのに、脳は見えないから、できないものも訓練でできるようになるなんて神話がまかり通っているのがたまらなく気持ち悪い。初期設定で組み込まれていないものはできるようにはならない。


私は自己管理ができない。余裕でダブルブッキングをかますし、重要書類もなくす。それをカバーするための手段を使いこなせない。

私の母は自分の経験していない世界を想像できない。どんなに説明しても自分の世界にない思想は「ありえない」で両断してしまう。

男親は自分の言動が他者にどう評価されるか考えることができない。

色々な側面における「できない」人たちを組み込んで世界が成立している。世界を動かす人々は彼らが「現代社会において」有能とされる分野が得意であるから、その分野で能力がない人の想像ができない。あるいは、そこは外れ値だと解釈している。それもきっと、現実より相当低い値で。


何がバリアフリーだ。何がグローバルだ。


この乖離はタイムマシンの未来を生む。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?