わかるとできるのはなし

頭でわかる、と実際にできる、は別物。

これはは何も目新しい話じゃないんだけど、それこそ「わかって」はいても日々「そうだよなぁ、そうだよねぇ」と実感することばっかりです。

締め切りや重要度で優先順位をつける、優先させるものからやる、タイムスケジュールを組んで絶対に落とせないことをやる、面倒と思ったものから思い切って手をつければ後は意外とスムーズにいく…

実体験としてその通りなのは知ってる。なんなら実体験にあるぐらいだからやってもいる。でも今それをきちんとやれるかというと別の話。理論はあくまで理論であり現実とは違う、というやつでして。こどもらにも、口ばっかり達者なことを言うときは「口だけやったら空でも飛べる!」と耳タコレベルで言ったりもする。


そんな偉そうなことを言いつつも、自分がこどものころ、どうもそのへんが乖離しているような子だった自覚がある。

わかったらできるのに。わからないからできないんだ。どうしてわからないんだ。脳内で完結させられないことがどうにも納得できなくて、自分なりの理論をひたすら組み立てた。自分にだけ通じればいい理論というか理屈だから、他者に押し付けることはしなかった一方で自分の理屈が通じない現実に対して、また自分の理屈を実行しない世間や社会に対して苛立っていた。なんでそんなこともわからんのや、大人のくせに。絶対こうやったらうまくいくのに!

でもそれどころじゃないわけだ。大人を過信してたり、バカにしてたりしてたわけだ。もっというと、有象無象のことがらは全て理屈でねじ伏せられるだなんて高をくくっていたわけだ。

マクロな古典物理現象だけなら理論で整頓できるかもしれない。でも人間は科学だけではできていない。もっというと、ミクロの物理学、量子力学の世界も現在の人間の理論だけではどうにもならない。そしてそれらすべてを併せ呑んだ要素で成り立っているのが、世界だ。


頭の中はどうにも可視化できない。どの人が、あるいはどのくらいの割合の人間が、どの現象をどうとらえているか、話はクオリアにまで昇華してしまう。わたしとあなたがこの言語で、たとえほんの矮小なフィールドであっても共通理解を得られるとしたらそっちのほうが奇跡的なんだ。頭ではわかっていても、生きる肉体はそんな厳密な論に構っていられない。まずは目の前に見えるだけの世界の自分が関われる範囲に対して、自分のスペースを開拓していかなければいけない。そしてその現場では逆に、わからなくてもできることがある。

でも、できたらわかるのに、できないからわからないんだ、どうしてできないんだ、とはならない。不思議なことだとおもう。


できる、というとカテゴリが違うが、感情というものは不思議なものだなとおもう。感情は発生するが、通常「ない」かというとそういうわけではない。強い発露があったら容赦なく自覚させられるが、普段は意識したら自覚できるというだけで、観測しようとしない限りそれはわからない。

できる(発露する)からわかる(自覚する)ときもあれば

わかる(自覚する)からできる(発露する)こともある。


まるで粒子と波のようだなとおもう。

このことは改めて、ちょびっと概念をかじっただけの量子力学をにわかに語るときに深く考えたいとおもう。

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