現代の焚書坑儒のはなし

作品に罪はない、という言説をよく耳にする。実際そうだとは思う。

ただ、発表の方法はいろいろありまして。


コンプライアンスや潔癖性が求められる現代社会ですと、例えば太宰治とかが幼児向けに道徳の絵本を書いたとしてもボッコボコに叩かれて発表されないんだろうなぁとか…。現代社会の是非はおいといて、現実としてそうなるだろうなと思うわけです。

なので現実として今回、障碍者差別におけるムナクソを武勇伝としてその後のフォローもなかった人の作品が、障碍者の祭典に用いられるのは見送られました。これはもうしょうがないとおもう。理念ありきのイベントに使用するものとしてその理念に反する人がかかわるのは避けるべきだから。


ただ気になるのがさぁ、もうEテレに音楽提供すんなとかいう意見が散見されてまして。個人的にパーフリがっつり聞いてた世代として、デザインあとかの音楽はホント好きで、デザインを旨とする番組で芸術性の高い(と素人が勝手に思っている)曲が聞けなくなるのはなんかこう、もったいない。

Eテレの理念とはいったいなんなんだろう。バリバラとか(あれは総合か?)やってはいるけど、バリアフリー一辺倒かというと、それとはまったく別ジャンルの専門性の高い内容も多数手がけていて、バリアフリーはその中の一つにすぎない。例えば現代社会だとさぞやボコボコにされるであろう人物の作品も、ものが優秀ならば題材にひかれたりもするだろう。


また、CD捨てました!って人がいるのはわかるし、負の感情の発露としてそれをネットで公開するのもそれは個人としてはわかるんだけど、以前書いたように、それが連鎖して渦となる危険性は、公開する人には承知してもらいたいと思う。例えば彼の曲自体をなかったことにしろ的な動きになるとこれは話が違うとおもう。やりすぎだし、文化の否定だ。

このことに限らず最近の思考のパターンとして多い、私が、私たちが、これだけ多くの人が気に食わないから消してしまえ、というのは焚書坑儒と何が違うんだろう。主導する人間が支配者階級から一部の市井の人に変わっただけで、非常に強権的で傲慢だ。その口で多様性とか絶対言うなよって思う。

負の多様性などいらぬわ!というかもしれないが、それは失敗のやりなおしを妨げるやりかただ。一度失敗した人間を二度と何もできないように抹殺してしまう。そして失敗を恐れ経験を積まない人間の群れができていく。そんな羊の群れを次世代につないでいきたいとは私は思わない。


ちなみに過去の偉人として知られるような人々のなかで、お友達になりたい人はほとんどいないし、逆にほとんどが「こういう人近所にいたらいたく厄介だろうな」と思うような個性の持ち主だったり、なんかをやらかしてたりする。いわゆる定型発達の人間だったり、社会性が高かったりする人というのは「常識的」であるがゆえに、なかなかそうした逸物にはなりえないことが多いからむべなるかな。

で、当時ですら(当時だから、ってのもあるだろうが)鼻つまみ者だった過去の人々の傑作を我々は今無批判に愛でている。たとえその人が倫理的に破綻していても、重大な罪を犯していても。ヒトラーの作品さえ、歴史的資料として残されているし、書店で求めることもできる。手っ取り早いからと目の前にいる人を「必要以上に」殴りつける前に、そういうことに無批判な論理を考える内省が必要じゃないのかなとおもったりもする。

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