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「永村茜山 思いの果て」のおはなし

田町の事件

典用幕の大黒様 
※引用ブログ(ほんまち輪の会ブログ)

 それは確かに事件だった。平成二十年(2008年)、金谷町田町公民館で古いダンボール箱から祭事用の黒い典用幕が出てきた。長さは縦227㎝、横1160㎝の大きなものだった。そこには「朝日」「恵比寿と大黒」「鯉と五人の唐子」が描かれ、「弘化二年九月田町若者」と記されていた。それぞれの図柄は実に見事なものだった。その年の十月、常葉学園大学日比野秀男教授(当時)ら専門家の意見を聞いた。

この典用幕は弘化二年(1845年)、厳室神社の祭典用に描かれ、田町地区の祝賀行事の仮設舞台などに張られた。そしてその図柄の下絵は「永村茜山(ながむらせんざん)」の可能性が高いとされた。日比野教授は「おめでたい絵柄でバランスもいい。この時代にこれだけの大作が描けるのは茜山しかいない。二六、七歳ごろの作」(「静岡新聞2008・10・8)と述べている。

確かにこの時期の茜山は全国を放浪した後、金谷宿に辿り着いた頃であった。「これぞお宝」、まさしく地元での大事件であった。

茜山 その思い


 文政三年(1820年)、茜山は江戸に生まれた。幼いころから画才に恵まれ、七歳で「渡辺崋山」の内弟子となった。崋山は茜山の画才を認め、常に側近くにおき、手元を手伝わせながら指導をした。

天保九年(1838年)、異国船が相次ぐ中、幕府の「地図改め」として、伊豆七島巡視の任が、師の崋山の代理として弟子の茜山に回ってきた。茜山一九歳の時であった。茜山はこの旅の間、伊豆風景や風俗の絶妙なスケッチを残している。

更に「伊豆七島絵図」の作成にも関わり測量の技術も学んだ。その翌年、崋山が謀反の疑いで捕えられた時には、その類が及ぶのを恐れ、茜山は江戸を脱出、数年後金谷宿に辿り着いた。

その頃、金谷宿では大井川治水に苦慮しており、茜山の測量技術が生かされた。嘉永元年(1848年)金谷宿組頭永村金左衛門の養子となり、娘のすずと結婚、金左衛門を襲名し、金谷宿組頭(現町長職)として多忙な日々をおくる。この時期の画業としては、寺社への奉納絵馬や金谷医王寺の「雲竜図」など残るが、画業千年の日々には遠かった。

四一歳の時一念発起し、すべての事業を閉じ、崋山の墓を詣でた後、蔵に閉じこもり、画業に専念した。しかしその二年後の文久二年(1862年)病没。四三歳であった。

渡辺崋山


 ドナルド・キーンは崋山を「一度会ったら誰もがその人物に惹きつけられてしまう」(『渡辺崋山』)と記している。田原藩(愛知県)の江戸屋敷に生まれたが、父は病弱で俸給も乏しく、貧乏のどん底であった。崋山はその画才を生かして絵を売って生活を支えていた。やがて彼の絵は大変な評判となり多くの弟子が集まった。

家督を継いだ崋山は、その人物や学問的素養によって田原藩江戸老中に出世した。天保の飢饉の際には「一人にても飢死」させず、とその力を発揮した。一方、その頃頻繁に姿を現わす外国船に対して、自説の「海防論」において「論ずべきは西人より一視せば、我那は途上の置肉の如し」と幕府の対応を批判した。このことが幕府から「危険人物とみられ、捕えられる(「蛮社の獄」天保十年)。崋山四六歳の時であった。三年後、藩主に迷惑が及ぶのを恐れて自害した。

 崋山が描く絵は、中国の故事図。生活の日々を描く風俗画、そして人物画であった。特に、人物画は西洋遠近法の影響も受け、従前の肖像画とは全く異なり、人物の真のリアリティを追求した。それは「リアリズムに対する崋山の情熱がその究極の表現」(ドナルド・キーン)に達していた。

崋山と茜山


永村茜山顕彰碑

崋山は茜山を「これは才あれども私智に被れ候もの、誠に困人にて」と弟子に書き送っている。茜山の才能を認めながらもその浪費癖を嘆き心配している。儒教的精神の崋山にとって、同じ士族でありながらも自由奔放の茜山に心を痛めていた。崋山が捕えられた時には、茜山は早々に逃げ出した。

しかし茜山はある時突然立ち止まる。自分の夢は「絵描き」になることだ、と。すべての世俗の門を閉じ、芸術にすべてを賭けた。しかしその日々は、崋山と同様、茜山も余りにも短かった。
 永村茜山の墓標は洞善院に、顕彰碑は城山公園にひっそりと建つ。
 

(地域情報誌cocogane 2022年6月号掲載)


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地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)

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