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ラピュタはすぐそこに!飛行石を探し求めて…

金曜ロードショーで『天空の城ラピュタ』を放送していた。これまで数えきれないほど観ているのに、ストーリーも熟知しているのに、やはり良かった。

主人公たちと同じ年齢の頃にも、この映画を観ることができて良かったと思う。
あれから10年、20年…と時が流れ、今も物語のあちこちに散らばる伏線や繊細な描写に気づくたび、さらに感動が深まっている。

観終わってからの余韻も心地良い。
ひとつの冒険を終えて、心の中の小さな私もひとつ成長したかのような、前向きな気持ちになる。
しかしほんの少しだけ、せつないような哀しいような感覚が同時に湧いてくる。

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さて、似たような感想を持つ女性はきっと多いのだろうが、年齢を重ねるにつれて、健気で可憐なヒロインのシータよりも女海賊ドーラの魅力に惹かれるようになった。

設定は50代らしい。歯が疎らでもっと老人なのか思っていたが、時代的な描写になるのだろうか。
しかし、どっしりと大きな体躯で駆け回り、よく食べよく飲み、抜け目なく頭の回転も早く、大きな声で息子たちをどやしつける威勢の良さ…。

主人公たちは親のいない子どもで、(だからこそ、親に縛られず自由に冒険に飛び出せるのだが)ドーラという「母性」に出会うことになる。

ラストではパズーたちの無事を喜び母のような役割をしながらも、ちゃっかりラピュタの宝石やら宝物を手に入れていて、やっぱり抜け目ない。
また、髪を短く切られたシータを慰めたりと、細やかな「女心」も忘れていない。

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ファンの間では有名な話で、ドーラは宮崎駿氏が自分の母親をモデルにしたといわれている。残念ながら、お母さんは完成した映画を観ることが叶わず、制作中に亡くなったという。
作者が身近な人物を作品に投影させるのは、よくあることかもしれない。そして、自分自身をもどこかに登場させているはずだ。

私の想像も入り混じるが、逞しく優しく母性あふれるドーラ、彼女に喝を入れられたり見守られるパズーは作者自身。ドーラの娘時代のようだと言われたシータは、かつての若かりし頃の母親。

夢を追う普通の男の子が、母に見守られ、恋と呼ぶよりも純粋な愛をもって少女を守る。パズーがシータを守る様子は、とにかく純粋で打算も駆け引きもない。
そういえば、『未来少年コナン』のコナンとラナを彷彿とさせる。究極の少年と少女!

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そうそう、この前の『特別展  宝石  地球がうみだすキセキ』に展示されていた「紫外線で蛍光する鉱物・宝石」がとてもラピュタっぽくて盛り上がる!ということで、ここにも画像を貼り付ける。

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意外と「こんな宝石まで蛍光するの?」ということに驚く。図鑑やネット検索で見るのと、実際に光る様子を肉眼で見るのとでは大違いだ。



母親目線となった私の、観終わったあとに感じるほんの少しの哀しい感覚。その正体は何なのだろうと考えていて、ひとつの思いに突き当たった。
それは、映画の中で永遠に止まった時間とは違って、現実世界の過ぎ去った日々はもう戻らないという感傷だ。
決して戻らない時間や、もう会えない人たちに思いを馳せてしまう。

それから、ひたむきで気高く心優しい、守るべき人を守り抜く主人公たちの姿があまりにも清々しく、大人になってしまった私にはどうしても眩しすぎる。
現実世界は決してそうではないと知ってしまった、少し穢れてしまった私には、眩しすぎるのだ。



子どもを抱えながらも働く私は、飛行石を探し求めている。
世界の何処かにきっとある、不思議な力を持ち、日常を非日常に変えて心躍らせる出来事をもたらしてくれる、とっておきの石を。

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残念ながら、そんな都合のよい魔法みたいなアイテムなんてこの世にはあるわけがない。

ないんだけれど…。

でも、ジュエリーを作るという仕事は私にとって冒険の旅みたいなものだ。
「◯◯のパワーがあります」なんていうパワーストーン的な商法は好まないのだけれど、人とジュエリーの間には特別な何かが絶対にある。

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ドーラのように何にも臆することなく「飛行石、欲しい〜!」と自分を奮い立たせ、50代、60代と年齢を重ねても、この世界を飛び回っていたいと思う。
そして、子どもたちが冒険を終えて戻ってくるたびに、しっかりと抱きとめてあげる「母」でもありたい。

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