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日常:2019/4/12 空気のような差別と風立ちぬ

クルド人女子へのイジメ(というより集団での人種差別と迫害に近い人殺し)報道をみて、恐怖を感じた。

むごい。集団でよってたかって、何やってんだろか?日本人は、クルド人を殺してきたISISを馬鹿にできるのかな?と思ってしまう。これが公立の小学校だから驚く。

東大での上野千鶴子さんの祝辞を読んだ。「フェミニズムの話」「女性学に対して男性学はないのか?」など男のリプが目に入る。社会に浸透した価値観やルールを疑わない。自分を含めて、他方の生きづらさが、お互いの不利益ということに無自覚だ。正直、無意識の男の同調圧力なのか、書くのが怖い。自分のなかにある暴力性や弱さの言い訳に感じる。でも書かずにいれない。

たまたまテレビでやってた「風立ちぬ。」を視聴。長い夢が破滅につながった現実の先へ。エンドロールを観ながら、2019年を生きる僕は、この実直で美しく、哀れな史実を前に、哀しみと無力感、また自分も夢の世界を生きてるんだ、と、薄ーい思いを巡らせる。

先日、自己紹介の話に絡めて、意識の話を書いた。自分の意識がどこからどこまでなんて、人それぞれ違うものだ。自分の意識が脳内で閉じることもあれば、社会的につながって帰属意識を強く持つこともある。学校、男社会、仲間内、企業、派閥、国…自分を超えた存在に判断を委ねるほうが安心する。それは安心していいことなのか。

風立ちぬのラストシーン「生きて」という言葉は絵コンテ段階で「来て」らしい。美は破滅に向かう。

日記のつもりで書いたが、よく分からない文になってしまった…

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。