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役に立てない、いる意味がない、と悩める人にエールを

自分のことを「役に立たない」とか「いる意味がない」って、悩んだこと、ありますか?

…たとえば、新しい環境に馴染めなかったり、希望と配属のミスマッチ、実力不足や強い叱責、孤立化…
よく聞く話に思えて、悩み出すと死ぬほど辛いんだよね。

自分もミスばかり続けて、ついつい「自責」してしまって、挙句には潰れちゃったことがある。よくよく振り返ると、自分以外に原因があったりした。そして、まだ同じ場所で生きている。
(ひとこと「振り返る」といっても、自分は精神福祉士やカウンセラーの助言のもと、なかなかエグい認知療法や内省・反証をして、懐に落とした。それは人生観を変えるほど、とても意義深い時間だった。)

いま同じように悩める人がいたりして、自分は何か言えるんだろか?と考える。分からないけど、その辛さ、苦しみは報われてほしい。全てを否定しないでほしい。できたら少し話をさせてほしい。

誰だってプレッシャーに潰れてしまう

「やりかたが違うのかな?」
「努力が足りないのかな?」
「向いてないのかな?」
「ここに居ても、いいのかな?」

潰れる前にそんなことを考えながら、どうにか責任を果たそうとしていた。決して仕事がたくさんあったわけじゃない。

朝、いつもと同じ時間に出てきて、13-14時間ほど画面を凝視(しながらグルグルグルグル考えている)、深夜、いつもと同じ終電で帰る。ミスをしたって、無理をしたって、あるのは諦めたくない気持ちだけ。事は進まず、当然強くお叱りを受ける。プレッシャーが思考の行き場を塞ぐ。そんな一日を繰り返した。緊張を続けるあまり、オンもオフも関係なく、笑顔も涙もなくなっていった。素直な左手が痙攣していた。

で、倒れちゃったんですよね。オーバーヒートしたエンジンのように、一見静かなようで、中身は焼け焦げてススだらけ。身体が限界だった。

心は最後まで諦めていなかった。他者からしたらおかしな話だけど、死ぬつもりで応えようとした。その身勝手を病的とも疑わず。その身勝手は実現性に乏しく、報われることもない。精神福祉士さんに「その悩み、、、そういう脳って、半年ぐらい放心させないと回復しないですよ。」と言われた。調べたら脳のストレスって本当にそうだった。もう返す言葉もない、実質のドクターストップだった。

苦しい人に、何ができたんだろう

どれだけの実績を重ねても、条件が揃えば、スキルも年齢にも関係なく、人は潰れる。単に「できないこと」を続けたら潰れてしまう。

潰れないようにすることより、何ができたかを探す必要があったのかな。あの日の自分に、たとえば何ができたんだろう。その後のメモを見返した。

実現できたこと
・話すことができた
・活かすことができた
・活かせないことも話せた
・不満を言えた
・休むことができた
・苦しみを分かち合えた
・偏屈を見過ごせた
・ネガティブな偏見をなくせた
・自分に気にしなくていいと言えた

自己啓発というより、小学校の道徳のようだ。こんなわがまま、もっと言ってもよかったんだ。どれも一人で実現しないこと。でも、誰にも言えなかったんだよね。

いま見返せば、自分じゃない誰かに対しても、同じ気持ちでいたくなる。誰かを潰さないことより、誰か自身にできること(あるいはできないこと)から自信につなげたい。できることから可能性を広げてあげたい。

20代の子たちと話したあと、よく反証する。彼ら、彼女らは苦悶している。こんな自分なので、どこかに載ってるテキストではなく、自分のことばでエールを送りたい。

貢献したいけど、何をしたらいいか分からない人へ

「(相手に)貢献したい」気持ちがあるのに、自分が何をしたらいいか分からない人、うまくできない人って、いると思う。

・まとまった仕事を任されない
・求められる動きができない
・外側でどれだけ勉強しても変われない
・ある分野で苦手意識がある
・扱いづらいと感じる

受け身の状況は、新卒や未経験者に限らず陥ることがある。一方的に「扱いづらい」だなんて感じたら、悲しくて居られない。

(自分はどこにいますか?)

なんて聞いてみたい。いま活躍しまくってる人、幅広い守備範囲を持っている人でも、はじめからできたわけじゃない。でも頭のどこかにある小さなエゴから広げてきたんじゃないかなと思う。切っても切れないエゴ、自意思が行動につながる。論より行動が力になる。「自己効力感」なんてググったら、体験が一番効くと書いてあるよ。(※自己肯定感ではない)

逆に、守られた人ほど不憫に思う。理解できないこと、できないことが何かも知れない。何にもなれない。そんな人こそ、傍にいてくれる人に言ってみたい。

「この部分、やってみたいです。」

って。小さくても。やっぱり貢献ではなくエゴとして。そこに遠慮も不安もあっていい。誰にも変えようのない自分がいるはずだから。

「この部分こそは」そう望む人がいれば、傍で求める人がいて、世界が成り立っている。万人に便利なコンビニだけでは成立しない、世界は私と誰かでつくるもの。僕なら、そんな人にすべてを教えることはせず、少しだけ背中を押したい。その少しの「できる」が「したい」につながるよ。

やることは分かっているけど、思うようにいかない人へ

必要なことは分かっている。実はすごくできると思っている。だけど、思うようにいかない。そんな人もいる。

・できるのに任せてもらえない
・同じ気持ちなのに伝わらない
・環境を言い訳にしたくない
・せめて得意な部分を活かしたい
・思ったほど役立てない

その不遇が、本当に活かされないものなら、周囲にも原因があるかもしれない。そう思えたら相談できるはず。

周囲のサポートがあって、それでも、満たされない人がいたら問いたい。

( 他者はどこにいますか? )

と。逆に。

実は自分より、他の人のが多いんだよ。…知ってるか(笑)

それでも不遇の色眼鏡を付けて、あなたは他者を見失う。相手は何を求めてるんだろう?答えが決まっていたら他者なんていらない。他者がいれば、分かってるつもりの世界がなくなって、もっと思いどおりにならない。フレームを裏返せば、カンタンには得られないモノゴトが、そこかしこに眠っているよ。

まずは、自分だけでどうにもできないモノゴトがある、と認めたい。そして、異なる価値観、意見があることも。自ずと、自分が求めていること、相手が求めていること、そして、お互いの間にあるものを探せる。分かってるつもりだった自分でも、自分と誰かができる何かを新しく見つけられる。

とても思いどおりにはいかないけれど、そんな世界は愛おしいもんだよ。

1人の痛みや苦しみを知っているなら

受け身の人、あるいは、承認欲求が強い人。悩める自分や知人たちを浮かべながら考えてみた。どちらにしたって、1人じゃ満足できなくなる。至らなくても、あなたが人の痛み、苦しみを知っているなら、それだけで十分な意味がある。

この話に結論はないけれど、痛み、苦しむ自分や誰かに向けてエールを送りたい。そんなところからでも、道は開けるよ。って。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。