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ラクロスで9度!! 海外遠征で無限の可能性が広がるの巻 #ラクロス #スポーツ


#私の遠征話

ラクロスとの出会い

私の場合、観戦のための遠征ではなかった。自身が体現してきた海外遠征の話である。海外遠征ときくだけでワクワクする。とにかく私はラクロス馬鹿である。それは今も、、、つづいている。そして、ラクロスで何度海外遠征に行かせていただけたことか。ラクロスの出会いには感謝しかない。そしていい思いをさせていただいた分、今は恩返しで次の未来を背負う子供たちの育成に奔走する。


大学で出会ったラクロスは、当時日本一を本気で目指し、キラキラと輝く先輩にあこがれラクロスと出会う。といっても私の入部は1991年と随分と昔でもあり、ちょうどラクロスが1986年に日本にラクロスが輸入されてきたところである。関西学院大学ラクロス部創始者でもある、今もニュースエブリーの小西美穂さんが旗揚げをし、海外からの練習メニューやルールを翻訳、また関西近郊の大学にチラシをまき、メディアが新しいスポーツということで取り上げる効果は絶大に。関西ラクロスリーグを立ち上げるパイオニア的な存在である。ラクロスする人はちょっと個性的で、バイタリティーがある?くせが強い?と思う人が多い気がする。何か新しいスポーツを選択する時点でかなり、個性豊かな人の集まりだと今もよく感じる。当時のユニフォームは起源がアメリカインディアンの国技であるのに、イギリスからの影響が強かったのか、タータンチェックのミニスカートに、ポロシャツも襟をたてて、ソバージュロングに、ワンレンの時代を感じるが、口紅はシャネルの〇番と神戸の大学では定番のJIBのカバンは船の帆の布でそれもカラフルでこれまたおしゃれ感は半端なく、クロスをもって歩くのがステータスなぐらいで当時は話題性の面でメディアは取り上げられることが多く、ドラマや、アニメにもでるようになるぐらいの話題性があった。

クロスも昔はウッドで網がついてこれは何?と電車に乗れば、「魚釣りか?」と聞かれ、また、「ほら、あれ何だっけか、あの馬にのってするスポーツ?」と聞かれ、それはクリケットね。と心の中でつっこみをいれるぐらい全く世間にはラクロスの認知度がない。

しかしながら、大学から始めるスタートラインが同じところでは、クロスをくるくるまわして、ボールがおちないように遠心力をかけてふりかぶってシュートをするとても奇妙なスポーツも見た目のかわいさからは考えられないほど格闘技である。サッカーと同じ広さで、当時は12人制。かわいらしいユニフォームからは想像がつかず、マウスピースをして、鼻にクロスがあたり鼻血はでるは、折れるは。頭にクロスがあたり流血があって縫うなど、、なかなかの格闘技。(今は10人制今後オリンピック競技では6人制とされている)


私自身はバスケを小中高としていたので、競技自体は攻守の切り替えや、空間認知予測のプレー判断は、よく似たスポーツですっかりどはまりし、寝ても覚めてもラクロスのことしか考えなかった貴重な大学時代には、3度日本一を経験することは人生にとってあれ以上に、ラクロスづけの日々ですべてをかけて燃えつきたことは後にも先にもない。当時はコーチがいない文化でありすべて自分たちで組み立て行き、目標の設定から、データーの割り出し。毎月の課題、メンタルにかかるところのミーティングは不安と覚悟をぶつけ合う仲間には信頼しか残らない。日本一のためにチームの統率から見えない敵と戦い、命がけの練習があっての日本一は勝てばすべてが報われ「建設は死闘、破壊は一瞬」との通り、毎日かなり張り詰めた生活も、気が狂いそうな毎日に、おしつぶされそうなプレッシャーで目の色が変わるぐらいのラクロスに出会った学生時代は宝の何物でもない。最高の仲間たちは今も人生の財産になっている

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#海外遠征その1 初めてのイギリス遠征へ

「Lacrosse Makes Friends」

前置きが長くなってしまったが、これはラクロスの合言葉である。あとラクロスには「ボランティアリズム」「国際親善」というワードが当時あった。

1993年に初めて日本が参加するワールドカップがあるとのことで、日の丸背負って絶対にいきたい!世界に通用する自分になりたい!と限界に挑戦する中で沸々と代表への夢が大きくなっていった。
大学時代は毎年、なんだかんだいろんな国のクリニックがとても刺激的で、新しいラクロスは海外へ習いに行くが当時の日本。1992年にイギリス遠征では、今でいう二刀流、両利きの技術を教えてもらい、大学決勝ですぐに使い!当時としては画期的なことだった。

またイギリスでのラクロスクリニックの練習途中でも、お国柄イギリスは3時になると、どんなに練習をしていても絶対に3時には「TEA TIME!!」と素敵なティーカップにはいった温かいお紅茶と、口がまさまさになる、まあまあ甘まめなクッキーがテーブルに並べられ、スポーツのあとにクッキーって、、と今?なんで?と思ったものである。

しかしながらスポーツ途中でもリセットする、優雅な気持ちを忘れない、気品ある国民性なんだろうか
何よりも一番びっくりしたのは、海外の方の指導性にはとにかく、めちゃくちゃほめる!!ことにとてもびっくりした。昭和なパワハラでしか育ってなかったスポーツの世界。全くもって微塵も海外には、人を貶めるような指導性はない。これは何よりも一番の収穫で今後の指導性の原点にもなっている。

#海外遠征その2 

「1993年アメリカ遠征で出会った故ノリオ・エンドウ氏」

日本代表としての遠征は毎年2月に、アメリカ遠征へ、ウィリアム&メアリーでの大会参加に2度出場する。雪もちらつく、極寒の中、吐く息は白く走るとすぐに足が冷え体がきしむ。5・6試合、現地の大学生とラクロスの試合をする中で、日本チームの課題や、戦術の確認(ゾーンや5秒で決まる速攻、ブレークのフィニッシュする角度、セットプレーでのフォーメーションなど)体格の大きさ、パワープレーに圧倒されながらも、コンパクトに早いパス展開のラクロスも、日本人特有の協調性も求められながら試合をこなしていった。


その遠征の最中、日本にラクロスを普及してくれたノリオ・エンドウ氏との出会いがあり、彼は日系3世、戦争の辛酸を知り尽くし友情があればあのような悲惨なことななかったのだと、感慨深く目を細めながら当時本人の口からラクロスを日本に広めたお話をお伺いした。(慶応大学男子がラクロスのスポーツを見つけてきたという所説もあるが)遠征時に、聞いた私の記憶では日本に何のスポーツを普及したらいいのか、とソフトボールか、他のスポーツかと話す中、日本の実業家を通じ、ラクロスを日本に普及をしたと。
ラクロスというスポーツは平和外交の一環として「Lacrosse Makes Friends」を合言葉に、国際親善、ボランティアリズムを根幹にラクロスは当時毎年、国際親善試合があり、関東、関西交流ではお互いホームステイをしたり、地方にいってラクロス普及をしにいって、相手方のおうちに宿泊させていただいたり、なんとも不思議な文化も今は懐かしく、ラクロス普及は地道に草の根的に普及されてきたのである

#海外遠征その3

「1993年W’CUP日本代表として日本自体も初出場 @エディンバラ」

1993年8月、日本代表としての初のワールドカップ出場は
アメリカ、イギリス、オーストラリア、スコットランド、ウェールズ、チェコに日本と参加国も少なく7か国。結果当時同じ時期にラクロスができたチェコにだけ勝利。それでも日本では体現できない化け物のような体格の人たちと、試合をできたことは勝ち負けもしかり、私的にはわくわくでしかなかった。参加国としては初めての参加というのもあり当時の代表監督コニーさんは、「あなたたちは、捨てるものがない、だから思いっきりプレーを楽しみなさい」との後押しもあり、勝っても負けても、自身が悔いなくようどれだけの力を試すことができることへ注力しつつ。しかしながら、やはり負ければ悔しく、毎回試合あとになんとも通用しない自分にいら立ちと悔しさやはりこみあげてくるものがある。毎回涙していた時も、コニーさんは、泣いた顔を見るのは悲しいのよと母親のような励ましで、どんな相手であっても、とことんラクロスを楽しみなさい、それはどんな時も前をみるのよ、と挑戦することを忘れないでねと毎回自身を鼓舞しながら挑んでいたように思う。世界一のアメリカには到底かなわず、そんなときにですら、あきらめた気持ちもつゆ見せないコニーさんは、私に「あなたは背が小さいのだから、脇の下からアシスト際に、バウンドパスをしなさい」とのアドバイスですら、ラクロスをとことん楽しませてくれワクワクしたものだった。

当時のワールドカップの会場といえども、マイナースポーツゆえの観客席もドリフのような(笑)簡易的で移動ができるもので、会場的にはとてもひっそり行われたものであった。遠征中に21歳の誕生日を迎え、宿舎のドアにたくさんの風船とバースデーカードがサプライズで飾られ、またチームメイトからもTシャツに一言書いたプレゼントをいただき、ルームメイクにくるおそうじのおばちゃんさえも、「Happy Birthday」と声をかけてくれ、なんて温かい人たちの集まり何だろうか感動したものである。


大会があった、エディンバラはイギリスの島の上のほうの国で電車での移動が長かった。当時、大会中でも、日本大使館にお邪魔し歓迎をしていただいたり、イギリスでの新聞で日本が健闘したラクロス!を紹介してくださってたくさんの方のおもてなしを受けた。何かをもって恩返しをしないといけない。こんなにいい思いをさせていただいたのだからと、この時にも強く思ったものだ。ワールドカップ大会後にはウィンザー城へ見にいって、その時にみた、まっすぐの1本道がどこまでも続いて、その絵が今もラインのアイコンにしている。道は、自分で切り開くのであるといわれているような気持ちにさせてくれるものだった。
大会後は観光に?街中へ繰り出しお土産や、オックスフォード大学への見学もさせていただいたり、歴史あるレンガつくりの建物にも風格を感じる素敵な国だなと思いつつ、企画ももりだくさんで海外遠征にはすべてがいい思い出しかない。

しかしながら英語の中学の教科書でもあったようにイギリスはいつもcloudy、雨か曇り、晴れる日?あったかな?雨の中の試合は足はとられ、ボールは芝の上ですぐ止まり、網は水分を吸い重たくなる。BADコンディションでも最高の戦いに臨まなけばならなかったことですらすべてがいい経験となった。

私自身は、何よりも最高の指導者に会えたことがとても人生の分岐点でもあり、ラクロスにおいても、人生の価値観も変わり、さらにラクロスが楽しくなったのはコニーさんのおかげでしかない。
当時の初代日本代表監督は、元オールアメリカンのキャプテンでもあったコニーランゼルさんは、たまたまご主人の転勤で日本にいて、聖心ラクロス学生をみて、ラクロスしてるのね。と声をかけたのが発端とのことで海外でラクロス経験のある人というところで、小さいお子さん抱えながら日本初代代表監督を引き受けてくださった。

何のご縁だか私と同じポジションでオフェンスでボールゲームを支配する場所であり、OFでのゲームメイクをする当時2Hといわれるポジション。ゴール前のカットのバリエーションから、自分で点をとるか、アシストで誰がフィニッシュシーンにするのかを采配する。ポジションの役割やカットのタイミングをクリエイティブに、かつ、人を生かしつつ自分も生かすプレーをしなさいと。理論的な戦術とブレイクシーンの的確な角度は、はじけるカットのタイミングは絶妙で「WAIT  WAIT・・Now! Go!」と英語がわからない私にもわかりやすく、5秒で決まる速攻はボールマンとの視野取り、DFのポジショニングを割り出し、チームメイトの個性(くせ?)味方の視野、気持ちをつかみなさいとまで言われたような。また的確で絶妙なタイミングを教えてくれた時には、どの選手としても急にからめるようになりラクロスの世界が広がり楽しくてラクロスが楽しくて仕方がなかった。そのラクロスの楽しさは今も続いている。


それでいて、あれだけの包容力とかつ人格者で、唯一遠征で勝てる相手がいたときにでもさえも、相手のことを思う立場も示唆し、自分たちより弱い相手には彼女たちが落ち込むほど点はとらなくてよい、自分たちができないことをチャレンジするのよ、とスポーツマンシップとまたラクロス以外の人間性のことにまで随分と教わり、後にも先にもいない指導者であった。
もう引退したであろう彼女はアメリカで企業育成の社長だったのでやっぱりすごい人で、当時小さな男と子3人を連れて遠征や幾度とある合宿にもにもきてくれ、子育ても大変中、私たちを世界に連れて行ってくれた。
彼女がいたから今の私があるといっても過言ではない。「今後の日本の発展のために得たものは還元しないさい」これはコニーさんが言い続け、だから私は今もラクロスの育成にかかわっている。

#海外遠征その4 

「U19でのコーチでオーストラリア遠征へ」

ワールドカップが終わり、その2年後次の人材へとのことでU19の大会がオーストラリアであるとのことで、若い子たちをともに次はコーチとしての立場で遠征へ。しかしながらもともとポテンシャル高いU19チームの人たちの集まりなので、あまり指導した記憶はない。戦術確認、ベンチワークくらいだろうか。オーストラリアとの試合は全勝で、午前試合をしたらそのまま午後、ユニフォームの下に水着をきて、世界のサーファーのメッカ、ゴールドコーストの海へざぶーーーんと!きゃっきゃいいながら海は最高の波だった。

夜は相手チームと飲んで食べて交流会という名のもとのレセプションパーティー。帰りの飛行機の便、添乗員さんが、乗る時間に待ち合わせ??あれ?ってなって。飛行機手配にてんやわんやしてたことは覚えている。というのも、次の日は会社に行くこともあり、1週間も会社の休みをいただき、後ろめたい海外遠征にきたので、無事にみなで日本につけるんだろうかって不安でしかなかった。やはり海外遠征は珍道中がありながらも、今でもやはり海外遠征は楽しさしか残っていない。

#海外遠征その5

「40歳にして復活の現役、2014年11月香港リーグ決勝へそして優勝するの巻」

2013優勝2

30歳でラクロスを結婚出産で引退し、すっかり子育てで全く皆無のラクロスも40歳手前に、関西学院大学男子ラクロスが決勝に関東にくるからOBGに徴収がかかったのが、ラクロスの復活になった。

当時の男子の先輩が日産スタジアム投擲広場で親子ラクロスをしていて、産後10キロ太り、子育てしかしなかった10年。ラクロスは皆無の世界だった。

(結果、自分がラクロスしたくなり、親子ラクロスから、お久りぶりの40前後のラクロッサーがぼちぼち戻る場所となり、月1回、7年間していた、日産スタジアム投擲広場にて)

2016 日産

全く走れないのにクロスをもったら、、、あれ、やはり勝負師スイッチがはいる。はじめは動体視力がおちていて、キャッチするタイミング、シュートする瞬間にゴールの空いている枠が現役よりみずらくなっていた。
しかしながら、またラクロスする仲間が集まり、パスキャだけでおなかいっぱいで楽しくしていたラクロスも、月1でワンコインランチもほぼ私が用意しながらホットドック100本作ったり、タンドリーチキン、ヨーグルトにを前日に仕込んで当日2キロ焼いて行ったり、業務用の量を作るまでになったので、いつしかケータリングができるような大会ができればと思うぐらいの規模になりつつあった。7年間親子ラクロスや中高生クリニックや、アラフォー世代が練習するようになり、なんと!40前後のラクロスおばちゃんたちが再び!!チームFUNを結成し2部リーグ戦で出場することとなった。


この40歳超えたチームの母体は、社会人まで35歳までしていたとか、体育大出身者も多く、代表で一緒にしていた人、ユースメンバー、日本一を取ったメンバーなど。なかなかのポテンシャル高い集まりで。そのチームで香港在住の方もチームFUNで。子育て、仕事しながらも香港から日本へリーグ戦となれば帰国するなんともワールドワイドな世界であった。やはりラクロスする人はなんか世間と違うバイタリティーを感じたものであった。

同じチームの先輩が、香港リーグの決勝に助っ人できてくれと言われ、2014年11月、香港でおいしい飲茶たべにいこう!と思うぐらいのものも、ふたをあけると、この日に命をかけた、真剣な決勝戦にであったことにはつゆ知らず、試合前にマッサージの接待もうけ、決勝戦頼むね、と言われても、なんかどんどん緊張してくるじゃないの。あれ、話が違う?と思いながら、ここまできたら勝つしかない、もうやるしかない。と自身を鼓舞した。

その中には香港在住日本人ラクロッサーが6人はいたように思うが、中にはセンターをしていた欧米人はラクビ―をしている選手でとてもパワーがある人で。香港チームのメンバーも、私的には全く練習もしたことない人たちのプレーイメージをし(これもコニーさんの教わった通り、プレーのくせ、好み、特徴、性格も個性を生かすことに徹した)それぞれの特徴、性格、マッサージ中に先輩から話をきいて割りだし、みなが関わり、みなが楽しめるラクロスでないと勝てないのである。

結果。優勝にいたる!!

2013香港優勝3相手チームと

2013香港シュート3

2013メダル

それはそれは、大きなメダルをいただいて、大感動の劇的瞬間を味わせていただき、香港チームといえふども、ほぼ試合でた半分は日本人の集まりであったが、香港メンバーとも友達となり、みなが天を仰いで涙していて昨年負けていたチームだけに思いが別格だったようだ。私を誘ってくれた先輩はこの日のために、40歳超えても尚、体脂肪を絞ってきたらしく、現役さながらにキレキレにMDを走りまくり、試合中はとても興奮して声を荒げてみな鼓舞していた。それも、その先輩も流暢な英語で!!そしてチームタイムアウトの時には、「ドローがなぜとれないんだ!」と英語でまくしたてるキャプテンは香港チームをひっぱる日本人ラクロッサーであり、めっちゃかっこよかった!!これぞ!「Lacrosse Makes Frieds」なのだ!!

こんな急な出会いにでもすぐに友達になり!喜びを分かち合い、なんと素敵な出会いだったんだろうか。ここからさらにスイッチ全開のラクロス人生になったのだ。この香港ラクロスで初めて出会った人から、初めて一緒にその夜ごはんと食べ後に、一橋ラクロスコーチの依頼を頂いた。頭が良すぎるじゃないか。私には無理だろうか、と悩みながらも。なんだこの縁も?すべては受け入れて!とにかく前を向くしかない、やるしかないのが私である。

道なき道を切り開く!そこにいとしさと、かなしさと、せつなさと??もちろん不安もある。うまくいかないことばかりが人生なのだ。それもすべてひっくるめて、駒をすすていく過程がなんとも楽しいのである。2部か3部をいききするチーム作りも、勝つことへの文化、メンタルのとりくみも、2部2位で4年かけて安定したのも組織でチームを作るコーチとしての楽しさも、さらに勉強させていただけた

#海外遠征その6

「スタンフォード大学ラクロスクリニックへ」

2016スタンフォード

そういえば、、2013年から日産ラクロス投擲広場の親子ラクロス、チームFUN発足から中高生クリニックをしたところから、桐蔭ラクロスでコーチを探しているとのことでそのご縁で、外部コーチをすることとなり(一橋コーチの前の4年間)、2016年に、「スタンフォード大学ラクロス」クリニックを学生がいくので、どうしてもアメリカの技術をみたいと思い、英語のできるラクロッサーと、コーチでつながっていたメンバーと一緒に。
カルフォルニアへ夏1週間いくことになった。そこでのクリニックも全米コーチが30人集まり、全世界から280人いた中で大学へのセレクションがあったり、当時のアメリカ代表のコーチがいたので、ぜひクリニックを見たいを参加させていだき、アメリカの技術、練習メニューを許可を得て、ビデオや、見学をさせていただいたのもとても思い出深いこととなっている。アメリカはスポーツが文化であり、ビジネスであると感じた瞬間であった。

そのあともたまたま現地にいた、関西学生時代にとてもお世話になったラクロスの先輩は母子留学をされいて、現地にいたので先輩と、スタンフォード大学卒業生とごはんたべることになり、アメリカのラクロス事情のお話、プレーについて様々教えを乞う。アメリカラクロスのコーチは大学で1000万近くの給与があるということ、彼女自身も高校のクラブチームコーチで生計をたてていること。まだスタンフォード大学内にはコート8面?あり、寄付金で成り立つ〇〇スタディアムという、個人の名前がついたグランドがあるぐらい、スポーツが文化であり、規模の違いにアメリカならではのステータスも感じた。
各グランドにはスポーツドリンクとプロテインバーがテーブルの上においてあり、食べ放題はアメリカならではなのか?どこまで環境が整っているんだ?練習のあとにはクールダウンで、プールにはいり、朝昼晩と3部練習。夏のカリフォルニアは夜9時まで明るく、気温の25度でとても過ごしやすかった。

毎晩は試合をする中高生は、さすがに、ばてたようでアメリカの食べ物があわなかったりで、テント下で私たちは、夏バテと軽い熱中症的な中学生を4・5人面倒みることになり、マネージャー化し安全面確保で、日中ぐったりしている彼女たちに日本食みそ汁を渡したり、バナナやゼリーを食べさせたり。かなりハードな、6日連続の3部練習はさすがに大人でもきつい。
しかしながらいつものように、どこでもある最後のレセプションパーティーで、どうやら出し物をするとのことで。これは日本チームのときもあるあるで、文化交流の一環で、お披露目するものが必要である。

JKたち、中高生はノリノリで!当時、はやりの「ももくろ」で踊りをみせ、最後元体操部だった彼女はバックテンで!しめたときには、300人近い中高生、コーチ陣が大爆笑に手をたたき、全員がスタンディングオベーション!!となり、しかも全員にベンチに帰るときにはハイタッチで迎えられ、なぜか、日本のチームは大歓迎で、バックテンの彼女のコンサート会場になったこともすべて貴重な思い出である。こんなラクロス以外の交流にも最大の楽しみがあるから海外遠征がやめられないのかもしれない。人との出会い、珍道中なことへの発見が一番楽しめる瞬間。

#海外遠征その7 

「2017年アジア勢ぞろい!香港CUP!!参戦」

2017香港

すっかりアジア遠征に味をしめ、おいしいものが食べれる!また新しい海外の友人との和も広がる楽しさも、チームFUNができたことで、当時香港の普及にかかわっていたメンバーが香港から日本チームをつれてきてくれないかと、かき集めたチームFUN.もともと元代表や、ユースをしていたメンバー。人数がぎりぎりで、中にはだまされたっていいながら、20年ぶりにラクロス復帰する人、ルールがかなりかわり?オフサイド何回とられたことか(笑)。

1日にフルゲーム2試合で、しかも気温は30度前後。命がけだったように思う。なので交代がかなり激しいのだ。交代したくても、顔をそむけているとか、実はチーム内いろんなことが錯綜したゲームなんです。けが人も多く(笑)ねんざで固定され車いすで空港運ばれたり。それでも現役なながら体育大卒のお方は、どうも基礎体力は40過ぎても衰えないらしい・・・。アジアチームには十分まだまだ通用し。参加して2位だった!これもとても楽しい試合でしかなかった。

2017VSシンガポール戦


見た感じ若くはないな?ふけてたのか(笑)、あなたたちいくつ?と聞かれ「40オーバーよ!」というと「エクセレント、ナイスゲーム」と試合会場であちこち声をかけてくれた。

そういえば、1993年ウェールズの代表選手でビビアンという40過ぎた方が代表ででていて、21歳の私からして、バケモンでしかなかったが、そのバケモンの分類ににはいってきたのだ。(笑)。

ビビアンは当時試合会場でご飯している時の会話で、私は毎日10キロ走ってキレキレんな選手で、あなたは何キロ走ってるの?とさらっと聞いてくる。ミッドフィルダーの選手には運動量かなわない。私は点取り屋専門でゴール前のOF。クロスをくるくる回し、クロスのスライドをして伸ばしたり、バックシュートをしたり、アシストしてシュートしてもらったり、パワーよりも省エネクロスでの頭とテクニックで勝負してきたのだ。

なので走るところでは比較にはならないが、それにしても香港CUPは、中国、シンガポール、と参加国あり。まだまだ40歳すぎてもいけるじゃないか!それよりもラクロスを楽しめる場所が香港でもあり、こんなおばさん連中にも、しかし心は現役さながらラクロスの機会をさせていただいて、これもラクロスをしていた1点のつながりのご縁でこれまた、たくさんの出会いには感謝しかない。

2017香港スケジュール

1日2試合は、そしてめちゃくちゃ暑く、熱中症の症状がいつもあります。実は、なかなかのハードな試合スケジュールなんです。アミノバイタルと栄養ドリンクはかかせないのである。ちなみに、、栄養ドリンクはドーピングらしく、世界大会では一切飲めなかった。これは余談だが、関学の全日本大学決勝の際に、お金持ち?の先輩が3000円のユンケルを飲んで、ちなみに日本一3度目の一歩もひけない大事な試合でさえ、ゲン担ぎかもしれません・・私は500円のユンケルが精いっぱいでした。1993年、日本一とった先輩!アシストもくれ、シュートも決め!試合がおわってもまだいけるっていっていたのに、急に、疲れた、、きれてきたっていうではないか。高いユンケルはおそろしいものなんだとその時にインプットされている。

香港CUPはドーピング検査があるわけではなく、これは世界大会でもない。ちなみにワールドカップにでたときは、チームメートが突然よばれて、審査する人を目の前におしっことるところをみられるとか言っていて、とても大変な作業らしい。

しかしながら40前後のおばちゃんたちには、そんなの関係ない(笑)アミノバイタルも一番いいもので高いもので!毎回、試合の前、合間も、後も、何度疲れをとるために、飲んだことか、、そして!試合前には疲労回復、筋肉をあっためてもらえるタイガーバームは必須です。可動域があがります!

においが半端ないです。(笑)

あと、やはり珍道中ネタ!!これは永遠に受けつがえれるであろう、、香港空港内はめちゃめちゃ広く。乗り場がモノレールで移動2-3駅あり、1時間前についていたものの、あわてて帰って、トイレで着替えをしていたらしく、5分前にいくと、急遽乗り場がかわっていて、結果お三方・・帰りの便乗れず。乗ろうと思っていったら飛行機が飛んでなかった説。緊急事態発生に、心優しい香港在住の日本人が再度空港まで送ってくださり宿も提供してくれ、こんなつながりが!!何度もいうよ(笑)

「Lacrosse Makes Frieds」なのだ!!!

#海外遠征その8 
「2018年 即席チーム発足!JーCONNECTION(JC)ラクロスチームでシンガポール遠征へ」

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これまた何のご縁だか、今度はシンガポールで試合があるけど!!と、いくいく!!とすっかありアジア遠征は身近となりつつ。

3泊4日の大会も3日間5試合消化でかなりハードだが、、すっかりアジア遠征にどはまりし、しかもおいしいものが食べれるツアーなんてこんな楽しい機会はないのである。

物価も安くミシュラン星がつく屋台のチキンライス500円もしなかったとおもうが、まぁ、これはこれはとても美味で、夜は毎日屋台へ繰り出し、飲んで食べて、これもラクロスした後の仲間との醍醐味である。

といっても急な遠征へのお誘いも、社会人がお休みとれるってそうないのである。なかなかメンバーが集まらず、なんとしても行きたい私は、当時2016年日本一をとった関西学院ラクロス部後輩が関東在住。関学後輩4人を誘いそこから関西のクラブチームにつながり、関西へのクラブチームへのお声掛けまで発展し、ラクロスのご縁で初めて会うメンバーと急遽チーム結成!メンバーギリギリだったのに、当日2人これなくなったのだ。一人は車事故で、もう一人は、パスポート期限半年切れていたので入国できず、、、
こんなことある?人数が急遽10人制のシステムにかわるときで、エントリーもぎりで。シンガポール在住のラクロッサーに急遽試合でてもらう珍道中も。マレーシア参加、に日本人ラクロッサーを発見し、急遽合流していただいたり、このつながりもなんともラクロスあるある?不思議なご縁でした!

しかしながら集まった、この若手たちがまぁ走るは拾うは、シュート決めるはでピッチピッチの子たちに守られ、なんとオーストラリアにも現役では全然かなわなかったのに、一歩手前まで追いこみ、相手も35歳前後だったように思うが、変わらず打点の高い位置から浅い角度でバシバシ決めてきた。

これは昔も今も変わらないスタイルだったが、これまた負けず嫌いの私も、なんとか対策できなかったのか、と今思えば悔やまれる。結果オーストラリアには勝てず2位にはこれまたとても満足で、とてもラクロスが楽しかった!!
ここにもいつも香港カップにくる中国の選手が頭にチェックをして、うちのチームのメンバーに頭をぱっくり割われ、そのまま病院で縫わせた、その相手がいるじゃなかいか。それでもひるまない。というか、その選手にかかわらないようにゴール前はパスワークで交わしていき、メンツも毎回おなじみになってきていたところであった。

優勝したオーストラリア人は、試合がおわってすぐにテキーラを出して、小さいコップにつぎ、これは勝っても負けても用意してたのか?何かを歌って一気に飲み干している。試合おわってすぐに規格外の一気飲み?これまた化け物の集まりである!しかし、世界は広い、自由だ!ワールドワイドな世界を垣間見たひとときであった。

#海外遠征その9 

「2019年4月2回目香港CUP!! 現役慶応女子ラクロス参戦」若手・・現れる・・

2019年5月香港CUP2

2019香港4位

まさか、、40歳超えて、ぴっちぴっちの20前後の子たち、しかも慶応ラクロスは1部で強豪チーム。Bチームといえども、、走るわ走るわ。で。1日に2試合消化。さすがに、2日目はばっきばっきの筋肉痛になって。起きたら全く体が動かない。ここで!香港しかうっていない、タイガーバーム。ブースト?とかで最強の塗薬。体育大出身の子たちは、これが最大のお土産だそうで、ここにしか売っていないと爆買い。それに代わるものをいつも塗っているメンバーがいて、においがかなりきつく、スース―する。背に腹は代えられぬと、においは大変だったが、思い切って全身にぬりだぐって、2日目に突入した。これが、な、なんと、めちゃくちゃ発汗作用がすごくて、あちこちかカッカする。初めての体験だったが、おしり裏も、熱くなっていった。あちこち、かっかするのが、どうやら、筋肉の炎症物質を促しているのか、足も、肩も、腰もどこも痛くない?というか、ますます走れるではないか!!これはみなで爆買いしたところであった!!このおかげでなんとか試合消化もでき、月曜の最後の試合はほぼ仕事で帰国し、メンバー交代できない中、泣きながら、、最後は使い切っておわった試合だった。この大会に1993年代表だった一つ上の先輩が、急遽!!参戦!イギリス在住なのに、フットワーク軽く、香港へ、日本へ、こんなバイタリティーあふれる世界はまわりにはいないなと。彼女のラクロスブランクの間はトライアスロンをしていたとかで、ブランクを感じさせないロールダッチからの打点の高いシュートを放ったときにはフラッシュバックした瞬間であった。

本当によくがんばった!!試合で、結果は慶応には勝てず、4位で。

あの塗薬?はドーピングになるのであろうか?あんなお薬・・・どうなってるんだろうか?筋肉痛、捻挫、いざ試合のときにはぜひお試し!あれ!!

2019香港CUP記事になる

ぼろぼろで終わったのに、、、がんばったチームFUNは現地の香港での新聞にとりあげていただいた!!この遠征は、、、疲れた、、でしかなかったが、やはり、試合の後の!観光が最高に楽しいのだ!!屋台で値切りまくるFUNのおばちゃん。試合よりの沸点高めに、そこにめちゃくちゃ気合いれるんか?とちょっと笑えたところであった。そだ、この時も思い出珍道中ネタとしては、香港在住のラクロッサーの先輩宅へ、5人宿泊で合宿のようで!めちゃくちゃ楽しかった。トイレとお風呂のドアの取っ手が具合が悪いなと思っていて思いっきり閉めたらなんとそのまま閉じ込められて、でれなくなってしまった。

私はこのまま一生でれずに、ここでおわってしまうのか、このドアをぶっこわして、代償するのか、もがきようがなく1時間フリーズしていた。ら真剣に「じゅっちー生きてるのか?」ぐらいの勢いで、あまりにすることないから、寝てみたり、返答せずにじっとしてたら、めっちゃ仲間たちに怒られ。そこで、頭の良い、先輩が、ドアにドライアーをあてて、膨張していたドアを乾かした?のか、そこに隙間ができて、トイレにあった耳かきの棒を、ドアの隙間のものをスライドし脱出できたときには、もう、、、私なんか過去世に悪いことでもしたんかって。思うぐらい恐怖な瞬間であった。こんな普通に生きてたら、あることないであろう?珍道中がやはり海外遠征は楽しいのである。

#海外遠征その10はコロナ禍で延期・・・
「2020年4月 香港CUP、2020年7月U16/19イタリアCUP」

2020年はいけなかったのに、2021年はアメリカとイタリアはコロナ禍の開催だったとのこと。2021年は東京オリンピックで感動の嵐だったが、運営や、感染拡大の中本当に大変な中の開催だったと思われる。

イタリア2021 ❷

2020年、香港もイタリアも!行く予定だったのに、、、コロナ禍発生で急遽延期となり、悔しくて、不可抗力ではあったが、いつかリベンジを待つしかない。そのために2028年にオリンピック競技となったラクロスに自分は今何をすべきなのか、考えさせされた2021年。といきつくとこは、次世代への育成であった。
2021年11月「JCラクロス横浜」小学生クラブチーム発足にいたる。
ラクロスの出会いで人生100倍楽しませてたいだいたので、あとは御恩返しの活動をしていく。

しかしながらなぜこれだけはまったのか、ラクロスに、、人の出会う数が半端ないこと。新たな出会いがどんな時にも無限に広がるのが一番の魅力である。結果私は人が大好きなのだ。

①ラクロスで世界を広げてもらったのが1つ

②ラクロスは人をつなげるツールであるからだ。

私にとってはラクロスはコミュニケーションツールであり、皆を幸せに、笑顔にしてくれるツールの1つである。だからいまだやめられないのかもしれない。最後に「Lacrosse Makes Frieds」やはりこれにつきるのである。

長々と読んでいただいてありがとうございました。

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