JBFな人たち #5 松澤奈美(株式会社 松一)
JAPAN BRAND FESTIVALにかかわる人たちは、一体どんな想いを持ってものづくりやビジネスをやっているのか?JBFに入って良かったことは何か?そんな問いに対して、当事者たちにインタビューしてきました。
第5回目は、長野県諏訪市で、主業とする精密加工業の技術を生かしたアクセサリーブランドを立ち上げた株式会社松一の松澤奈美さん。自社ブランドのピアスをつけて人生が変わった!?逆境に負けないパワフルなエピソードが満載です。
困ったときはだいたい友だち
——長野県諏訪市といえば、日本を代表する精密部品加工業の盛んな地域。研磨加工技術でものづくりをされている松一さんは、まさに「ジャパンブランド」という印象です。
松澤 そう言っていただけるとありがたいのですが、もともとはものづくりとは遠い業界というか、ほんとうにさまざまな業種を渡り歩いてきました。まず、創業者の松澤一正が1927年に「松一商店」という日用雑貨品を扱うお店を開きまして。それが松一のはじまりです。
——いまとは全く違う業界からスタートされているんですね!
松澤 そうなんです。でもその後戦争が始まってしまって、いろいろと業態を変えながらなんとか続けてきたのですが、終戦後、さてどうしようかということになったみたいで……。そんな時に、一正さんが友達から「お菓子を作らないか?」って誘われて、「じゃあやってみよう!」ってあられ菓子の製造をはじめました。
——すばらしい思い切りの良さです。
松澤 この「なんでもやるぞ精神」は “松澤のお家芸”みたいな感じでして(笑)。そしてお菓子製造が輸入のお菓子に押されて厳しくなってきた時に、当時の社長・2代目の正太郎が、友達に「精密やりたいんだけど」って相談したら「よし!任せろ!」って。それから時計の部品を作る精密加工業をはじめます。親子揃って、人脈で新しい仕事を拓いていく。これが今に通じる松一のスタイルですね。
——だいたい友達に声をかけられて事業を行うんですね(笑)。まさか、正明社長も……?!
松澤 そうなんですよ!時計の仕事も、次第に中国で委託されることが多くなってきて、いよいよどうしようかという時に2代目が亡くなり正明が3代目を継ぐのですが、そこで友達から「自動車部品加工をしないか?」と声をかけてもらえるんです。3代揃って、本当にすごいことですよね。
火事で、吹っ切れた
——そして今は、アクセサリーブランドに取り組んでいます。どんな経緯で始めたのですか?
松澤 本当にお恥ずかしい話なのですが、2014年の1月に会社で火事を出してしまいました。その前から、「これからは多角的に事業を進めて行かなくてはいけない」という話はしていたんですが、火事があったことで、具体的に新規事業に向けて動き出すようになりました。火事を起こしてしまった申し訳なさと、助けてくださった諏訪のみなさんに恩返しをしたいっていう気持ちが強くありました。
——ピンチこそチャンスと奮起されたんですね!
松澤 まさに。負けず嫌い精神ですよね。その年、毎年秋に参加していた「諏訪圏工業メッセ」というイベントへの出展も見送ろうかという声もあったのですが、個人的には「松一は火事になってダメになった」なんて思われたくなかった。「皆さまのおかげで、頑張ってやっています!」という姿を見せたかった。
——そこで生まれたのがアクセサリー事業ですか。
松澤 はい。じゃあ何を出そうかと考えた時に思い浮かんだのは、松一の得意技である「研磨」の技術でした。人工関節の材料にも使われる「コバリオン」という非常に加工が難しい堅牢な金属を、磨きの技で、アクセサリーにしてみようと。社長が3代目を継いでから、主軸の事業の傍で細々と素材や技術の開発研究を続けていたのですが、そういった開発の積み重ねが、この事業では大きな力になったと思います。
——プロジェクトは奈美さんを中心に進んでいったのですか?
松澤 開発チームの一員としてアクセサリー事業を進めていた若手のメンバーと、デザイナーの鶴本晶子さん、私という女性3人が中心になって進めていきました。それまで私自身、「製造業のこともあまり知らないのに余計な口出しをしたら悪いな」って遠慮をしていた部分があったなと思います。でも火事があって「そうも言っていられない、いま頑張らないでどうする!」と吹っ切れたところがありましたね。そこからはもう怒涛の毎日です。
初めてのピアスで大変身!
——JBFとの繋がりもその頃から?
松澤 「suwaデザインプロジェクト」でも大変お世話になったのがきっかけで、JBFにも参加しました。ずっと製造業でやってきて、小売りのことなんて右も左も分からない。何が問題で、誰に聞いていいかも何も分からない。とにかくやる気だけで進んできたので、JBFのことを知って、真っ先に申し込みました。私が一番早く申し込みしたみたいです(笑)。
——実際に参加されてみて、何か気づきはありましたか?
松澤 もうほんと、気づきだらけです(笑)。先ほどお伝えしたみたいに、もともと松一は周りのご縁に支えられて、いい意味で時流に乗りながらいろいろなことをやってきた。でもそれって、芯がないじゃんって。「なんでも屋」であるということが自分の中でこれまでずっとモヤモヤとしていて、常に「●●屋です!」って言いたかった。でもJBFのワークショップに参加するようになって、実は「なんでもやりますよ」って言ってもいいんだな、それが素晴らしいことだなと気がつきました。
——どんなことにも対応できる技術力があるということですから!
松澤 やっと腑に落ちたというか。そうすると、アクセサリーブランド「suwa megami」に対する自分の向き合い方にも変化がありました。クリエイターの方に協力していただいてすごくかっこよいプロダクトができて、HPも素敵で、その世界観を邪魔しちゃいけないとおもって、営業の時もどこか自分に嘘をついているような、「場違いでスミマセン」みたいな卑屈な感覚がずっとあったんです。でも、ドキドキしながら初めてピアスの穴を開けて、自分たちのブランドをつけてみたら、今まで着ていた服が全部似合わなくなって、服を買い換えて、新しい服を着てピアスをつけるようになって。ピアスを起点に、いろいろな変化が生まれたんです。
——それってファッションの、とても大切な、素敵な要素ですよね。気持ちも変わる。
松澤 特に女の人ってワンピースひとつ、口紅ひとつで気分がガラリと変わりますよね。自分が50歳を過ぎて初めてピアスを開けて、身をもってその変化を体験したからこそ、オバサンだからって尻込みしている人にも「そんなことないよ!」って胸を張って伝えられます。火事というなにもないところからのスタートということもあって、「suwa megami」が、「絶対に負けないぞ!」と思っている人とか「何かをやろう!」みたいに思っている人の背中を押す道具になってくれればいいなと思えるようになりました。私の友人が「決意表明のために指輪を買ったよ!」と言ってくれて、そういうことがすごく光栄だなって。
——背中を押してくれるアクセサリー、素敵なコンセプトですね。
松澤 ものが溢れている時代だからこそ、これからはどうやって、どんな想いで自分たちのものを発信していくかがすごく大事だと思う。もっともっと発信をしていかないとな。今ますます力がはいっています。
松澤奈美
株式会社松一専務。松一は1927年創業の精密加工会社。老舗らしい堅実なものづくりの一方で、新しいもの好きで実験用の治具や装置など、さまざまなフィールドを横断して面白いものづくりに取り組む。自身は25年前に嫁いできた。「焦れば焦るほど空回りしてぐるぐるしている」というものの、「周囲の助けもあってなんとかなっています」と朗らかに笑う。
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