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佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第10回:詩と小説のかかわりについて私が知っている二、三の事柄
借り物感いっぱいの見出しで恐縮です。困っています。
テーマをいただいて文章を書く場合、依頼文に目を通した段階で、雲状にもわもわしていてもその核のありどころくらいは見えてくるものです。ところが今回はいつまでたってももわもわのままです。なぜか?
依頼文がかつてなく十全で、それ以上のなにかをなかなか述べられそうにないようなのです。
そんな依頼文を本誌読者に見せないのはもったいない。
そこで、依頼
佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第9回:岡井隆詩集『限られた時のための四十四の機会詩 他』評
第一詩集『月の光』における「定域詩」に続き、第二詩集に当たる本書では、ソネット(原義とは厳密には異なるが、一篇十四行を条件とする)が主たるスタイルとして選ばれ、枠組みを設定したうえで枠組みにアレンジをほどこしてゆく手業を見せる。なお『岡井隆の現代詩入門』(思潮社)に、「立原道造の詩と初めて出会った時に、一四行詩の構造的な美しさ、読み終った時の完結のよろこびを知った」とある。
収載作「四十四の機会
佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第8回:雨の詩の匂い
雨の匂いというとまっさきにアポリネールの視覚詩「Il pleut」を思い出した。
窪田般彌訳では「あめがふる」と表記された題の五行の詩で、活字は原文と同じく左上から右下へ、流れるように斜めに配置されている。その最初(左端)の行では
あめがふる おんなたちのこえが おもいでのなかでさえも しんでしまったように
と、いかにも湿った追憶がこだまする。
詩は匂わないけれど(詩集は紙の匂いがするけれ
佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第7回:斉藤倫詩集『さよなら、柩』評
斉藤さんの詩集はいずれも一貫して内気で繊細なのだけれど、本書では歴史上の人物ルドルフ・ヘスから「幹事」「男子中学生」まで、いろんな人たちが罪とか悪とかについてうらうら考えているというスケールアップ(?)がみられる。無垢というもののありにくさをさびしみつつ、なおも求め続けることが詩作であるというように。
「愛してるの/してるだけが/好きなんでしょう(中略)□してるの/□には何が入っても/気づきもし
佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第5回:高階杞一『夜にいっぱいやってくる』評
夜にいっぱいといえば、あれだあれ。おばけ。おばけの絵本をひらく気分で、五つのパートから成る表題作を読んでみたら、たしかに五つの奇妙な光景が部分的連鎖をなしてはいるものの、おばけの楽しさからは少々遠かった。そこには、口調はソフトでも、いわくいいがたい不安や不快が描かれていた。〈床に転がっている指を/一つ一つ拾い集めている椅子がいる//「どうするの そんなもの」/「二十本集めたら一人ができる」〉(5「
もっとみる佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第1回:私の好きな詩人――多田智満子――
教科書をはなれ、自主的に詩をさがすようになって最初に好きになった詩人が多田智満子ではなかったかと、なんとなく思いだした。
夏の少年
1
たくさんの裸足【はだし】の駈けまわった大地の上に
ぼくたちよこたわる
だれとも抱きあわないで
どんな未来よりも完全な子供になって
2
ぼくたちぶらさがる
ひるさがりのぶらんこ
熟れかけたあけびの実のような
ぼくたちのか
佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第4回:少年ミドリと暗い夏の娘
私はミドリといふ名の少年を知つてゐた。庭から道端に枝をのばしてゐる杏の花のやうにずい分ひ弱い感じがした。彼は隔離病室から出て来たばかりであつたから。彼の新しい普段着の紺の匂が眼にしみる。突然私の目前をかすめた。彼はうす暗い果樹園へ駈けだしてゐるのである。叫び聲をたてて。それは動物の聲のやうな震動を周囲にあたへた。白く素足が宙に浮いて。少年は遂に帰つてこなかつた。
佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第2回:記憶と風景 ー北爪満喜詩集『奇妙な祝福』評
作品のなかで、父母も、祖母も亡くなっている。半分以上、追憶でできた詩集である。歌集なら帯文に「挽歌集」などと入りそうだ。
だが記憶というものはかならずしも時系列に沿っては再現されない。ちぎれ、つながり、変形する。詩歌で真実を記すとは、その歪みを歪んだまま記すことにほかならない。
バス停から薔薇に呼び戻されて
私は薔薇園に戻って歩く
母は 薔薇に 呼び戻されて
あの家にまた戻っ