百人一首と現代
橋本治さんの『百人一首がよくわかる』 を読みました。
小学生の頃かなあ。
国語の時間にちょっと遊んだ程度の百人一首。当時は回りくどいカルタとしか思わなかったけど、この歳になってふと思い出し、さっくり入門編として購入。
今すぐ遊びたいとかではない。
100歌全部覚えようといった気力もない。
ただ「どんなのがあったっけな?」という興味だけで読み進める。
うわ、ほぼ覚えてない。
というか知ってるものが無いな。
こんなんだったっけ…?
当時の記憶力のなさと無学さを思い知る。
見開きで歌一つ、左ページは解説。
関心の湧いた歌は解説までちゃんと目を通し、あとはぼちぼちとパラ読みで済ませ、読了。恋多き男女の怨みつらみだけじゃ無いんだなあ。
とっつきにくいイメージとは裏腹に、内容が無い(浅い)歌も多いらしい。
たとえばこちら。
柿本人麿によるこの和歌は、本書にしてみれば「長い夜を一人で寝るのである」と言っているだけの歌。
「長い」を表現するために「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の」と17文字も使ってる。キジの一種である山鳥の尻尾は長い。尻尾くらい、長い夜。「あしひきの」は山にかかる枕詞。それだけ。無駄とも思える言い回し、ここでも夜の退屈な長さを表現している(?)。
けれど今や夜が長いなんて考えること、少なくなったのでは。片手にはいつもスマホ。インスタ、ツイッター、TikTok。ちょっと時間あればNetflix。アマプラでもなんでもいいけど。
思い悩むひと時を紛らわせるに足るサービスが行き渡ってしまっている。
夜が長いと感じられる人は、幸福なのかもしれないね〜。
勝手気ままにいろんな受け止め方が出来るのが和歌の面白いところ。最後に、個人的にとても現代的だなと思った歌を2つご紹介。
長雨のせいで桜が散った、ぼんやりしている間に私も老いてしまったという、二重の意味で取れるこの歌。
「なんか違うな〜」と思いながらも思考停止的に会社勤めしているうちに、体力も気力も削がれていく自身の往く末をみてるような気持ちになりました。このままではダメだ…。
これはもう著者の現代語訳をそのまま引用。いわく「生きてけば よく思えるのか 今のこと いやだと思った 昔も恋しい」。うわあ。
以下、日記。
4回目のワクチン接種、いつも通り副反応で半日寝込む。天気もよくなかったので洗濯物も干せず。ただ寝ていただけの祝日。
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読みたい本も、取りたい資格も、一緒に飲みたい人も沢山で、それら全てに集中できておらず、とっ散らかってしまっている。何かをしている最中に「あれもしなきゃ」「これもしなきゃ」と考える癖を無くしたい。
かといって全力投球できる、没頭できる対象があるわけでもない。さして好きでもないことだけをやって、無駄に終わることは避けたい。
だけどこうやって、リスクを取らずに色々チマチマと手を出してしまっていることこそ、1番得るものが少ないようにも思える。種まきのつもりが、虚空を掴むような真似ばかりしていないか?
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自分は想像以上に平凡で、さしたる能力も特徴もない人間である。社会人になり2年近く経った今、このことを腹の底から自覚した。そこからスタートし、何をどう積み上げていけば良いのか。これを考えるのが今後の課題。
学生までの世間は狭く、母数の少なさによって、個人の特徴が相対的に担保されていたのだろう。実社会において自信を持って生きるために、内面を豊かにするべきというのは圧倒的に正しい。けれどもそうやって自己完結できる人間が、今の世の中どのくらいいるだろう?評価、評判、実績。他者の眼差し。これらに担保されないと不安で仕方ない。ガワを整えなければ気が気でならない、たまらなく貧しい。
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