30年日本史01048【南北朝中期】武蔵野合戦 笛吹峠の再戦
引き続き、太平記が記す武蔵野合戦を追いかけていきます。史実からは多少離れてしまうかもしれません。
義興・義治は仲間と合流できたことを喜び、石塔・三浦とともに鎌倉に攻め込みました。
鎌倉を守る足利基氏は、当初は3千騎で化粧坂と巨福呂坂を塞いで厳しく用心していたのですが、たまたま三浦半島に敵がいるとの偽情報に乗せられて、三浦半島に軍勢を向けてしまったところでした。新田方にとってはまさにちょうどよいタイミングでした。
鎌倉勢は三浦からちょうど戻ってきて、まだ馬の鞍も降ろさず、鎧の帯も解かないでいるところでしたが、時ならぬ新田勢の襲撃に驚いたことでしょう。
新田義興は、浜辺の民家のあたりで敵3騎を斬って落とし、敵中に駆け抜けていきましたが、敵から手綱を切られて、それを結び直すのに手間をとられてしまいました。敵はちょうど隙ができたぞと言って襲ってきましたが、義興は少しも慌てず静かに手綱を結び終えてこれを迎撃しました。
新田軍の勢いの前に、鎌倉方は思いのほか苦戦することとなりました。基氏の側近・南宗継(みなみむねつぐ:?~1371)は急いで基氏を連れ、尊氏のいる石浜を目指して逃げていきました。
さて、尊氏を討ち漏らしてしまった新田義宗は笛吹峠へと逃亡していたわけですが、ここで再び軍勢を整えて、再起を図ります。信濃に潜伏していた征夷大将軍・宗良親王とも合流し、2万騎の大軍勢となりました。歌人でもある宗良親王は、
「君がため 世のため何か 惜しからむ 捨ててかひある 命なりせば」
と詠み、兵たちの士気を上げました。
一方、石浜に落ち延びていた尊氏・基氏の元にも多くの兵が集まって来ました。その数8万騎です。これだけ集まったからには鎌倉を奪還できるだろうと、正平7(1352)年閏2月25日、尊氏は石浜を発って武蔵国府(東京都府中市)に向かいます。
閏2月28日。武蔵国府でさらに軍勢を整えた尊氏軍は笛吹峠に向かいました。新田義宗軍には錦の御旗があるものの、尊氏軍はそれに怯まず攻めかかっていきます。
元々、尊氏軍8万騎と新田軍2万騎の対決ですから、尊氏が圧倒的に有利なはずの戦いでした。しかし笛吹峠は攻めづらく守りやすい地形のため、新田軍に有利な形で戦いが進んでいきます。とはいえ、戦いが7時間も続くうちに、新田義宗はついつい血気がはやって峠を降りて戦ってしまいます。そうなるとさすがに数の差が効いてきたらしく、新田軍は大軍に取り囲まれて敗れ、逃亡していきました。