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30年かけて語る日本史(毎日投稿)

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2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
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2024年7月の記事一覧

30年日本史00943【南北朝初期】常陸合戦 駒楯城の戦い

30年日本史00943【南北朝初期】常陸合戦 駒楯城の戦い

 北畠親房が小田城に入ってからしばらくの間は、常陸国内における南北朝の戦いは、南朝方が優勢に進めていました。
 まず延元4/暦応2(1339)年7月26~27日に、長福楯(福島県棚倉町)において南朝方の結城親朝が北朝方を破りました。親房が常陸入りしたことで、南朝方の士気が鼓舞されたのでしょう。
 苦境に陥った北朝方は、常陸に高師冬(こうのもろふゆ:?~1351)を派遣します。師冬は師直の従兄弟に当

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30年日本史00942【南北朝初期】南北朝初期概観

30年日本史00942【南北朝初期】南北朝初期概観

 ここからは稿を改め、「南北朝初期」として後醍醐天皇が崩御した延元4/暦応2(1339)年8月16日から、南朝が賀名生に移る正平3/貞和4(1348)年1月30日までの8年半を取り上げます。非常に影の薄い時代といってよいでしょう。
 南北朝時代といえば、後醍醐天皇・楠木正成・北畠顕家・新田義貞らが活躍する時期(1333~1339)と、観応の擾乱が起こる時期(1348~1352)がひたすら有名であり

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30年日本史00941【南北朝最初期】南北朝最初期総括

30年日本史00941【南北朝最初期】南北朝最初期総括

 南北朝の成立から後醍醐天皇崩御までをお話ししてきました。
 前章でお話しした建武期の3年間のうちに、既に南朝方の有力武将たる「三木一草」が4人とも戦死しましたが、南北朝時代が始まってすぐに北畠顕家と新田義貞までもが戦死してしまいます。
・北畠顕家 延元3/建武5(1338)年5月22日: 石津の戦いで戦死
・新田義貞 延元3/建武5(1338)年閏7月2日: 藤島の戦いで戦死
 加えて、後醍醐天

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30年日本史00940【南北朝最初期】後醍醐天皇の評価

30年日本史00940【南北朝最初期】後醍醐天皇の評価

 後醍醐天皇は後世においていかに評価されて来たのでしょうか。
 まず「太平記」という歴史物語においては、ある章では徳のある帝王として描かれているのに別の章では徳に欠けた身勝手な独裁者として描かれており、あまりにも一貫性がありません。「太平記」は多数の人物によって書かれたもので、整合性が確保されていないのです。
 次に、江戸前期に「大日本史」で南朝政党論を唱えた徳川光圀は、後醍醐天皇を手放しで聖人君

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30年日本史00939【南北朝最初期】天龍寺創建

30年日本史00939【南北朝最初期】天龍寺創建

 後醍醐天皇崩御の知らせを聞いた北朝では、天皇や上皇が崩御した際に行われる「廃朝」や「固関の式」といった儀式を行うかどうかの検討が始まりました。
 「廃朝」とは、朝廷の政務を一定期間休止して喪に服すことを意味します。「固関の式」とは、天皇の譲位や崩御のような国家の重大事に当たって、勅使を出して諸国の関所を警固させるものです。といっても、実際に有事に備えて警固するというよりは、単なる儀式となり果てた

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30年日本史00938【南北朝最初期】南朝2(97)代後村上天皇即位

30年日本史00938【南北朝最初期】南朝2(97)代後村上天皇即位

 延元4/暦応2(1339)年8月9日に後醍醐天皇は病に倒れ、その病状は日に日に悪くなるばかりでした。
 忠運(ちゅううん)という僧が天皇の枕元で
「今はとにかく、退位されて過去の宿命や煩悩をお捨てになることが必要です。最期の瞬間に何をお考えになるかによって、来世での生が変わるといわれておりますから」
と言うと、天皇は苦しそうな息で、
「私は生まれ変わっても朝敵を全て滅ぼして天下太平の世を作りたい

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30年日本史00937【南北朝最初期】小黒丸城陥落

30年日本史00937【南北朝最初期】小黒丸城陥落

 この頃、越前では脇屋義助の家臣らが戦闘を有利に進めていました。3人の家臣の活躍をまとめておきましょう。
 延元4/暦応2(1339)年7月3日。畑時能は約300騎で三国湊城(みくにみなとじょう:福井県坂井市)から攻め出て、敵の城12ヶ所を攻め落としました。
 同じく7月5日。由良光氏は約500騎で西方寺城(さいほうじじょう:福井県坂井市)から攻め出て、敵の城6ヶ所を攻め落としました。
 同じ7月

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30年日本史00936【南北朝最初期】常陸合戦 ホイホイ地蔵

30年日本史00936【南北朝最初期】常陸合戦 ホイホイ地蔵

 北畠親房は神宮寺城から阿波崎城に逃れたわけですが、そこもすぐに佐竹氏の攻撃を受けて落城してしまいます。神宮寺城と阿波崎城、いずれも東条氏が親房を匿った場所ですが、戦闘に適した場所ではなかったのでしょう。
 この2つの城をめぐっては、次のようなエピソードが語り継がれています。
 神宮寺城が陥落したとき、近郷の名主たちは親房に協力した罪により佐竹氏に捕らえられ、13名が斬首となりました。このときたま

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30年日本史00935【南北朝最初期】常陸合戦 親房の漂着

30年日本史00935【南北朝最初期】常陸合戦 親房の漂着

 延元3/暦応元(1338)年9月に大湊から出航した一同が嵐に遭い、義良親王が伊勢に、結城宗広が安濃津に漂着したことを述べました。他のメンバーは一体どうなったのでしょうか。
 まず、関東に向かっていた宗良親王・新田義興・北条時行は遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷(いいのや:静岡県浜松市)の豪族・井伊道政(いいみちまさ:1309~1404)のもとに身を寄せることとなりました。この後、宗良親王らは

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30年日本史00934【南北朝最初期】結城宗広の地獄行き

30年日本史00934【南北朝最初期】結城宗広の地獄行き

 太平記は続いて、この宗広の死が故郷の白河(福島県白河市)に住む妻子に知らされた経緯について、不思議な伝説を記しています。
 この頃、ある律僧が武蔵国から下総国へと旅をしていました。日が暮れて、泊まれる宿を探していたところ、山伏が現れて
「この辺りに旅の僧の世話をしてくれるところがあります。そこへお連れしましょう」
と言って来ました。
 僧は喜んで山伏についていきました。連れていかれた先は立派な寺

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30年日本史00933【南北朝最初期】義良親王、伊勢に漂着

30年日本史00933【南北朝最初期】義良親王、伊勢に漂着

 九州に赴いた懐良親王の話は一旦さておき、奥州に向かった義良親王、関東に向かった宗良親王の一行がどうなったかを詳しく見ていきましょう。
 奥州・関東に向かう一行は、陸路では敵が待ち構えていて通過しづらいだろうと考え、大湊(三重県伊勢市)から海路で東国へ向かうこととしました。
 風が止んで海が凪いだ延元3/暦応元(1338)年9月12日に、一同は大湊から出航しました。兵船500艘という大軍です。
 

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30年日本史00932【南北朝最初期】皇子たちの派遣

30年日本史00932【南北朝最初期】皇子たちの派遣

 吉野では、北畠顕家に続いて新田義貞までもが討たれたとの知らせを受けて、後醍醐天皇を始め、南朝の一同はひどく落ち込んでいました。
 そこに奥州の武士・結城宗広が参内して進言しました。ちなみに結城宗広とは、親朝・親光兄弟の父に当たる人物です。
「北畠顕家卿が三年のうちに二度も上洛できたのは、陸奥・出羽の両国の兵たちが顕家卿に従っていたことにより、賊が隙を突くことができなかったからです。人々の心が変わ

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30年日本史00931【南北朝最初期】尊氏、征夷大将軍となる

30年日本史00931【南北朝最初期】尊氏、征夷大将軍となる

 新田義貞が戦死した翌月の延元3/建武5(1338)年8月11日。光明天皇は足利尊氏に征夷大将軍の号を宣下しました。
 尊氏は建武式目を制定した時点で、源頼朝と同様に幕府を開く(武家政権を開設する)ことを決意していたものと思われます。既に実質的には武士団を統率する立場にあったわけで、あとは征夷大将軍の宣下を受けるだけという状況でした。
 恐らく宿敵・新田義貞が戦死したとの情報が入ったことから、これ

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30年日本史00930【南北朝最初期】勾当内侍のその後

30年日本史00930【南北朝最初期】勾当内侍のその後

 さて、ここで気になるのは義貞の妻・勾当内侍のことでしょう。堅田(滋賀県大津市)で夫と涙の別れを遂げた勾当内侍は、なんと義貞が戦死する直前に、義貞への思いを慕らせ、越前へと向かっていました。
 杣山城まで足を運んだところ、
「新田殿は足羽というところにおられます」
と言われ、勾当内侍は足羽を目指します。
 その途中、浅川にかかる浅津橋(福井県鯖江市)にさしかかったところで、瓜生照(うりゅうてらす)

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