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30年日本史00940【南北朝最初期】後醍醐天皇の評価

 後醍醐天皇は後世においていかに評価されて来たのでしょうか。
 まず「太平記」という歴史物語においては、ある章では徳のある帝王として描かれているのに別の章では徳に欠けた身勝手な独裁者として描かれており、あまりにも一貫性がありません。「太平記」は多数の人物によって書かれたもので、整合性が確保されていないのです。
 次に、江戸前期に「大日本史」で南朝政党論を唱えた徳川光圀は、後醍醐天皇を手放しで聖人君主と評価し、その忠臣たる楠木・北畠などを褒めそやしています。
 ところがその後、歴史家としても政治家としても活躍した江戸中期の新井白石は、後醍醐天皇を酷評しています。「徳のない天皇なのに鎌倉幕府を滅ぼせたのは、たまたま滅ぶべきときに居合わせたからに過ぎない」というのです。
 さらに大日本帝国の時代になると、南朝が正統とされ、後醍醐天皇を崇拝して足利尊氏を「天下の極悪人」と蔑む空気が生まれます。そして終戦後にはその反動で後醍醐天皇の評価はガタ落ちとなりました。
 してみると、後醍醐天皇は時の政権や政治的な思惑によってその評価が最も左右されてきた天皇といえるでしょう。
 改めて後醍醐天皇の事績を見てみると、彼の目的は皇位を持明院統や兄・後二条の系統に渡すことなく自らの子孫に独占させることにありました。鎌倉幕府を倒したのは「政権を幕府から朝廷に取り戻す」という大義のためというよりも、幕府が両統迭立にこだわっているせいで子孫に皇位を継承させられないからだったと考えられます。
 尊氏反逆後の後醍醐の行動を見てみると、あまりに利己的な振舞いが多いと言わざるを得ません。自分のために尽くしてくれた義貞に何の相談もせず尊氏と和睦したり、義貞を納得させるための方便として息子・恒良親王への譲位を偽装したり、周囲の人間は肉親も含め全て自らの手駒としか思っていないようです。
 これまで、崇徳にせよ後鳥羽にせよ、戦に敗北した時点で将来を諦めて大人しく遠島に配流されていったわけですが、後醍醐だけは命ある限り諦めず、あらゆる手を尽くして復権を試みました。北朝にとって、こうしたなりふり構わない相手に勝つには殺害という手段しかなかったと思われるのですが、天皇の殺害は(安康・崇峻という2人を例外として)最大のタブーであり、とても実行できるものではありません。
 後醍醐の存在は、
「『殺害されるおそれがない』という特権を与えられた者が、行動の一貫性も美学もかなぐり捨てて私利私欲を徹底的に追及すると社会にいかなる混乱をもたらすか」
という一種の実験結果を与えてくれているようにも思われます。そして後醍醐がもたらした混乱は、その後数十年に渡ってくすぶり続けることになるのです。

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