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30年日本史00934【南北朝最初期】結城宗広の地獄行き

 太平記は続いて、この宗広の死が故郷の白河(福島県白河市)に住む妻子に知らされた経緯について、不思議な伝説を記しています。
 この頃、ある律僧が武蔵国から下総国へと旅をしていました。日が暮れて、泊まれる宿を探していたところ、山伏が現れて
「この辺りに旅の僧の世話をしてくれるところがあります。そこへお連れしましょう」
と言って来ました。
 僧は喜んで山伏についていきました。連れていかれた先は立派な寺でしたが、そこに滞在していると、夜になって突然激しい雨が降り始めました。寺の庭に、突然この世のものではない地獄の獄卒が集まってきて、毒蛇や鉄の犬まで現れます。
 僧が「恐ろしい地獄にやって来てしまった」と思っているうちに、火の燃えさかる車に乗せられた罪人がやって来ました。獄卒たちがその罪人の体を絞るようにつかむと、罪人から血が流れ出ます。さらに罪人は鉄の串に刺されて炎の上であぶられ始めます。
 僧が山伏に対して
「これは一体何を犯した罪人なのですか」
と尋ねると、山伏は
「この者は伊勢で死んだ結城入道(宗広)という者で、阿鼻地獄へ落ちて責められているのです。もしあなたが生き残った妻子たちに会う機会があったならば、一日経を書いて供養して、この苦しみをお救いなさいと伝えてください」
と言います。この声を聞き終わるとともに目が覚めて、気づくと僧は野原に一人座っていました。
 僧はさっそく結城宗広の子・親朝に会い、この夢の内容を告げました。親朝は半信半疑でしたが、まもなく父が伊勢で死んだとの知らせが入ってきたため、僧の話を信じるほかありませんでした。親朝は七日ごとに一日経を書いて父の供養に当たったということです。
 それにしても、結城宗広のこれまでの登場シーンの中で、特に悪人らしいエピソードはありませんでしたよね。太平記はここで唐突に帳尻を合わせるかのように、
「宗広は『常に死人の首を見ないと気持ちが晴れない』と言って、毎日2、3人の首を斬って目の前に架けさせた」
というサイコパスなエピソードを紹介しており、宗広の阿鼻地獄行きを正当化させています。太平記には、このように前後のチャプターと整合性の取れない箇所が多数あり、作者が複数人いるためと考えられています。
 また、太平記は平家物語の影響を強く受けており、
「清盛は最後に念仏を唱えず頼朝の死を願ったので極楽往生できなかった」
というのと同一のエピソードをどうしても設けたかったのかもしれません。

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