【ゴジラ-1.0】ラストの敬礼について
▼なぜ敬礼を?
『ゴジラ-1.0』の副音声VFX解説コメンタリーで山崎貴監督はワダツミ作戦終了時の敬礼について、以下のような発言をしています。
ええと、いや、そこが論点じゃなくて。(苦笑)
軍人が敬礼をする意味くらい、説明されなくても判りますよ。
そこじゃなくて、なぜ登場人物がゴジラを敬礼が必要な相手だと認めるのか(ゴジラを神格化するのか)という点に納得が出来ないって言ってるんですよ!
コメンタリーで渋谷さんも髙橋さんも野島さんも、なぜ何も言い返してくれないの?VFXにしか興味ないの?(そうですねって返答されそう;笑)
▼敬礼が頓珍漢な理由:
私は『ゴジラ-1.0』での最後の敬礼を頓珍漢だと感じた派です。
理由は大きく三点。
・敵が人間や軍隊ではない
・敷島は生還した(1954は芹沢に敬礼してる)
・ゴジラを神格視しているのは一部の観客と作り手だけであって、劇中の人達は大きな害獣くらいに捉えてそう。
率直に言って、超でかいクマを退治した時に敬礼するか?ってことです。
●1954年の場合
ここで、シチュエーションが一見似ている1954年の『ゴジラ』を見てみますと、敬礼している相手は特攻して玉砕した芹沢博士であって、ゴジラではありません。
しかも敬礼してるのは軍人だけで、民間人はしていません。
1954年と1947年では少し時代が異なるので、マイナスワンの現場では人々の意識が違ったのかもしれませんが、僅か7年でそこまで大きく変わりそうな気もしません。
それとも、1952年4月にサンフランシスコ平和条約が発効されてるので、この時期の日本の社会の変化は激しく、日本人のメンタルが大きく変わったりしたのでしょうか?
●そもそも敬礼とは
そもそも敬礼とは軍隊で使われるものです。
戦争で倒した相手に敬礼するのは、相手もまた自国を守るという使命を背負って命を懸けていたことにリスペクトを示すためです。
敬礼とは本来、軍人が上官に対してするものです。なので自国内では上官に対してするものですし、敵国の場合は他人様の組織なので階級に関係なく礼儀を見せるために敬礼します。
そして、御国のために戦死した場合は、その命を捧げるという最上級に尊い行為に鑑みて、敵味方に関係なく階級を一気に上げて最高位の軍人として扱うので、生き残った人達は敬礼するのです。
その点、『ゴジラ-1.0』でのゴジラは本能のまま殺戮をしている害獣に過ぎません。彼らが敬礼している対象は、事実上の《人食いグマ》と等しく、まったくナンセンスな光景になっています。(苦笑)
もしかしたら、マイナスワンの時代は戦後すぐだから色々と信心深くて、ゴジラのような巨大生物でも当たり前のように神と同等に崇め奉っていたのかもしれないですけどね。
でも、そうだとしてもモノノケの類(=祟り神)なので、手を合わせてお祈りするのが妥当な気がします。
▼メタ的な表現だった説:
もしかして…と思う説が一つだけあります。
山崎貴監督は「いくら終戦直後でも民間人がゴジラを相手に敬礼するのはおかしい」とも言えることはよく解った上で、「僕はゴジラという存在をリスペクトしてますよ」ということを、映画館の客席のゴジラファンに示すために、登場人物全員に敬礼させたのかもしれません。
つまり、この敬礼はメタ演出だったという解釈です。
山崎監督がゴジラを神格化・リスペクトしていることは、作品からも、日々の発言からも、よく伝わってきます。それが高じて、こういう脚本になったということではないですかね?
もしくは、ゴジラを簡単に獣のように殺すなんてけしからん、と言いたくなる面倒臭い系のゴジラファンへのエクスキューズだったんじゃないかなあ、と私には思えますね、正直。
もちろん一部の観客は知っています。ゴジラもまた原水爆の被害者であることを。だから苦しみながら最期まで一所懸命に生きたゴジラに敬礼をしたくなる気持ちも生まれるでしょう。
でも、それはあくまで観客(映画内の出来事を外側から見てる人)の意見であって、劇中の登場人物もその心境だったのかは疑問が残るのです。
まあ、映画というのは監督の思想を反映する創作物でもあるので、それはそれで良いという考えから、私はこの敬礼を作品表現としては認めます。(偉そうな言い方してスミマセン)
ただ、リアル志向で考えると少し頓珍漢な描写ではあるよね、と感じました。
(了)