劇中に出てくる2篇の詩に着目したネタバレ感想です。
▼あらすじ:
▼詩について:
ヒラリーはこの映画で2回、詩を朗読します。
これらが彼女(初老に差し掛かった中年で鬱病持ちで未婚の女性)の心境をよく表していると思います。
1つ目は『炎のランナー』のプレミアで、オーデンのDeath's Echoの一節を。
2つ目はスティーブンに贈った本として、ラーキンのTreesを。
どちらも死を見つめた詩ですが、アプローチは正反対ですね。
1つ目は自分にセクハラしている劇場支配人への公開逆襲なので、すごく攻撃的だし厭世感が強いです。朗読しているヒラリー自身が死神(Death)であり、詩の中で踊っているのは支配人のことでしょう。彼はエンタメ界の華やかな秩序の中で、劇場支配人という役割をバカみたいに演じていろという皮肉が込められています。
ただ詩の前半をごっそりカットしているので、ここだけ聞かされても意味不明になりがちではありますかね…当時のイギリス上流社会でこの詩がどのくらい認知されていたのかは分かりませんが。現代と違って教養人が文学に触れる時間は長かったので結構みんな知ってるのかとも思います。ちなみに私は初見時では雰囲気はともかく意味まではよく分かりませんでした。
カットされた詩の前半部分では、人生に不安や悩みを抱える様々な職種の人たちが登場して、彼らに「どうせ死ぬんだから何も考えずに今の人生を送れ」と死神が囁く構成になっています。ヒラリーが引用したのはその最後の節のダンサーの(しかも後半部分のみだったと思います)となっていました。興味ある方はリンク先で全篇も読まれたら良いと思います。
踊れ、踊れ、死ぬまで踊れ。
2つ目は対照的に、再生を繰り返しながら生きることの喜びを綴った詩です。ただしこちらも根っこにあるのは老いてゆく自分への悲しみと嘆きです。春から初夏にかけて青々としげる木々を見て、ただ死へと向かって朽ちてゆく自身の体への感情がこの詩のスタートです。
しかし木々というのは実は生きているのは表皮の部分だけで、立派に見える根幹の中身(年輪の部分)は過去に生きていた表面部分の死骸です。この詩では、そうした科学的知見に基づき、自分もまた新しい気持ちを持って表面だけ生き返って、フレッシュに生き続けようという希望にゴールします。
これから大学で建築を学ぶために旅立つ若者に、そして年老いてもなお生きる歓びを見出す決意をした(この年齢になってようやく映画の素晴らしさを知ったように可能性はいくらでも開かれいる)自分自身に、贈る詩として最適だと思います。
フレッシュに、フレッシュに、常にフレッシュであれ。
▼常に死を想へ:
私自身、中年に突入して、そろそろ初老が見えてきた年齢で、最近は「死を想ふ」タイプの作品に心が打たれることが増えてきました。少なくともティーンの頃には全く響かなかったのは確かです。
やはり体力的な衰えや、体の部位に何かしらの不調が出ることを経験して、死や病気が身近になったことが大きいと思います。自分が死んだときに何が残せるのか。このまま死んでも良いのか。怪我や病気や貧困で満足に生きられない状態になっても幸福だと言えるか。仕事と収入はこのままで良いのか。
『エンパイア・オブ・ライト』のヒラリーは本当に厳しい状況です。加齢によって肉体は美しさを失い、幼少期のトラウマや日常の気苦労が招いた精神疾患を抱えて、苦労しつつも逞しく生きるヒラリーの姿を見せられて、心がヒリヒリ痛みます。私だって、明日は我が身かもしれない。
スティーブンとは物理的に離れますし、おそらく将来スティーブンは同世代の恋人と結婚して幸せな家庭を築くでしょう。
人間として生きていく以上、100%気楽に毎日を過ごすなんて不可能です。
しかしそれでも彼女には映画という好きなものがあって、映画館という好きな場所と仲間がいます。そうした悲喜交交を全て抱えながら、今後もヒラリーは生きる歓びを見つけながら生きていくのでしょう。そんな希望を感じられる映画でした。
特に本作で描かれる映画と映画館への愛情は、そのまま劇場で本作を観ている私達や、あるいはこの『エンパイア・オブ・ライト』を作った監督やキャストやクルーの投影であって、それがまた深く感動させてくれました。
了。