Jalka(ヤァルカ)

浅間山のふもとで紡がれるフォークロアを、広いあげ、記録し、伝え残していくための(今は架…

Jalka(ヤァルカ)

浅間山のふもとで紡がれるフォークロアを、広いあげ、記録し、伝え残していくための(今は架空の)小さな編集室。 (記事には過去に書いたものも含まれます。) ◆文筆・藤野麻子・・・北軽井沢在住。元執筆・編集業、ブックカフェ店主。現在は博物館学芸員。

最近の記事

北軽井沢 4つの夏の小景

稜線のその先に。 7月半ば。いつもは静かな高原の農村が「リゾート」と呼ばれる、短い夏がやってきた。  ひとけのなかった別荘地に灯りがともり、普段は軽トラックがのんびりと行き交う国道に、県外ナンバーの車が目立ち始める。待ち兼ねたようにレストランやホテル、商店が活気を取り戻し、「夏季無休」の看板を掲げて大わらわ。  ただしこの賑わいも、年々勢いをなくしてきていると聞く。「昔はもっと賑やかだったんだけどねえ・・・」地元で商売をしている人は口を揃える。たしかに、夏が来てもシャッ

    • 「六里ヶ原」を読む(2)詩情はゆたかにまして、高原は緑の化粧をなしていく

      こんにちは、進さん。 浅間北麓や吾妻地域の歴史を調べてみようとすると、かならずといっていいほど目の前に立ち現れる人の名前がある。 萩原進(はぎわらすすむ)。大正2年、長野原町応桑生まれ。歴史学者。郷土史家。 浅間山の噴火から、群馬の人物、民俗、風習、政治、芸能まで。 ひとつ気になることがありネット検索すると、参考書として出てくるのは進さん(ここではそう呼ばせてもらう)の著書。また別のテーマが気になり、図書館でキーワード検索すれば、ここでも進さん。古本屋に行っても、はい、こん

      • 今日のバトーさん(2)桜岩地蔵堂の馬頭観音

        つづいて紹介するのは、わが家からもっとも身近な(毎日の犬の散歩コース圏内にある)バトーさんです。 北軽井沢と嬬恋村大笹を結ぶ県道沿いにある「桜岩地蔵堂」。 浅間高原をドライブしながら、車窓からずらりと並ぶ幾体もの観音様を目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。 この「百体観音」こそ、<六里ヶ原>の歴史を今に伝えてくれている貴重な史料です。 浅間山の裾野に広がる原野だった六里ヶ原。浅間山が噴火をするたびに直接被害を受けてきただろうと思いますが、特に1783年の天明の

        • 白い花に埋まった高原にやってくると /回想・岸田衿子さんのこと(1)

          5月の北軽井沢ほど、始まりと終わりで劇的な変化を遂げるひと月も他にないのではないだろうか。 地面からようやく雪が消えるころ、裸の林にぽつぽつと咲くコブシ。続いて平地から1ヶ月以上遅れて桜が咲き始め、カラマツの木々の枝先にエメラルドグリーンの芽が顔を出す。大型連休が過ぎた2週目くらいから芽吹きのスピードは加速し、樹上で、足もとで、風景はみるみる新緑に塗り替えられていく。おおげさでなく、1日目を離しただけで窓からの景色が違って見えるほど。その緑の爆発のなかを、オオカメノキ、ウワ

        北軽井沢 4つの夏の小景

          今日のバトーさん(1)作道の馬頭観音

          おとなりの「バトーさん」 東京近郊のマンモス団地育ち。身近に石造物など見たことも意識したこともなく、つい数年前まで田舎の道端で見かける石の仏像っぽいものは、みんなひとくくりに「お地蔵さん」だと思っていた。 〈 足もと 〉(=浅間高原の歴史)に興味を持ち歩き始めてみると、「お地蔵さん」だと思っていたものにもいろいろと(仏様やら神様やら)種類があることがわかってきた。 なかでもどうも、頭にもうひとつ顔のようなものが乗っかっているのが多い気がする。耳があって、鼻が長くて、・・・

          今日のバトーさん(1)作道の馬頭観音

          「六里ヶ原」を読む(1) 悲しきほどに遠き草の径

          浅間山北麓地域を呼びあらわしたいとき、いまは「浅間高原」「北軽井沢」などを漠然と使い分けているが、ほんとうはもっと古くから親しまれてきた呼称がある。 「六里ヶ原(ろくりがはら)」。 最近では別荘地やドライブインの名前からも消えてしまい、正式な地名でもないため地図にも載らず、聞いたことがないという人も増えているかもしれないが、この呼び名ひとつに、火山のふもとに荒れ地や草はらが広がるばかりだった、開発以前のこの土地”らしさ”が表現されているように思える。 六里とは、一里が約4k

          「六里ヶ原」を読む(1) 悲しきほどに遠き草の径

          山麓ことば暦帖:〈凍み抜け〉

          山麓に住むようになって初めて知った言葉に〈凍み抜け〉がある。 冬の間、凍てついて岩のように硬くなっていた地面が、気温とともに緩んで柔らかくなり、ふたたび耕せるようになることを言う。 浅間高原の冬は、雪は少ないかわりに冷え込みはきつく、いったん根雪になると氷の層になり、土中も深度1〜2メートルという深さで凍みてしまう。だから今でも冬場は、ハウスものを除いて路地ではなにも栽培できない。秋までに蓄えた作物で、5か月近い長い冬をなんとか凌ぐしかない。自作農だけで暮らしていた人たちに

          山麓ことば暦帖:〈凍み抜け〉

          幻の「大草原」。

          のっけから家族アルバム写真を載せる失礼をお許しを。 これから、浅間高原という土地の風土や歴史を紹介していこうとするならば、この一枚の写真から始めなくてはならない。 アルバムのこのページのタイトルは「9月の大草原」。 母のお腹の様子から見て、弟が生まれる直前の、つまりわたしが丸2歳を迎えた、1975年の秋のことのようである。 「大草原」というのは、私たち家族と、北軽井沢の山荘を共同所有していた伯父・伯母・従兄妹たちが、気に入ってよく散歩に訪れていた山荘近くの草原のこと。 わざ

          幻の「大草原」。

          足もとをひらく。

          ヤァルカ(Jalka)とは、フィンランド語で「足」「足もと」「ふもと」のこと。 ここ浅間山の北麓の高原の邑で、日々暮らしながら、自分の足で歩き、ときどき立ち止まって耳をすます。 足もとに目を向ければ、この土地で紡がれてきた、歴史年表にはのらない、名もない人々の営みが隠れている。 足もとをひらく。 それは、かつてたしかにこの場所で、人と自然の交わりのなかで生まれた、知恵や、技や、物語を、そっと拾い上げ、今を生きる仲間と小さな声で分かち合い、未来にここで生きる人たちにきち

          足もとをひらく。