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今日のバトーさん(1)作道の馬頭観音

おとなりの「バトーさん」

東京近郊のマンモス団地育ち。身近に石造物など見たことも意識したこともなく、つい数年前まで田舎の道端で見かける石の仏像っぽいものは、みんなひとくくりに「お地蔵さん」だと思っていた。

〈 足もと 〉(=浅間高原の歴史)に興味を持ち歩き始めてみると、「お地蔵さん」だと思っていたものにもいろいろと(仏様やら神様やら)種類があることがわかってきた。
なかでもどうも、頭にもうひとつ顔のようなものが乗っかっているのが多い気がする。耳があって、鼻が長くて、・・・ん? これはウマの顔?

群馬のなかでも、ここ長野原町・嬬恋村を含む西吾妻地域は、馬頭観音が多いということをそのとき知った。
浅間のふもとの広大な原野は、中世には馬の放牧地として利用され、戦国時代以降、街道が整備されはじめると、江戸と信濃や越後を行き来する人々や荷物が馬に乗り行き交った。明治~大正時代には、六里ヶ原に日本初といわれる軍馬の育成のための洋式牧場(吾妻牧場)が開かれたり、昭和に入り高度成長期が始まるまでは、各農家が馬を飼い、馬産地としてセリ市も賑わった。
浅間北麓地域は、1000年以上にわたり、馬とのゆかりの深い土地なのである。馬の供養や、馬に乗り旅をする人の安全を祈るための馬頭観音が多いのもそのためだ。

一度目にとまるようになると、あちらにも、こちらにも、頭にずっしりおウマさんを乗っけたひと(ではなく仏像だが)だらけ。
本などで調べてみると、馬頭観音というとウマも仏さまも怖い顔をしているものがデフォルトらしいが、このあたりで見かけるものはどれもほのぼの癒やし系。ありがたい観音様というより、親しみを込めて「ちょっとその角にいるバトーさん」とでも呼びたくなる。

ここで、わたしの”推し"のバトーさんをいくつか紹介しましょう。

001. 作道(つくりみち)のバトーさん

草津温泉に向かう国道292号と、中之条と嬬恋方面を結ぶ国道145号が交差する「大津」交差点から、旧国道を東(長野原市街地方面)へ1,5kmほど進んだところ。交通量はそれなりにある道沿いにあるのだが、地元のひとでも気づいてない人が多いんじゃないだろうか・・・という不憫なバトーさん。
その訳は、崖崩れ防止の擁壁のニッチにめりこむように安置されているから。

町内では珍しい三面六臂(顔が3つ、腕が6本)のバトーさん。蹄鉄や馬用のワラジが一緒に供えられている。


地元のひとによると、このバトーさん、昭和の初めにこの道よりさらに崖下の吾妻川の河原で見つかったのだそう。銘には「天明三年」、浅間山の大噴火があった年。見つかったあとも、設置場所を変えると疫病が流行ったり・・・と紆余曲折あった末、このニッチスタイルに落ち着いた(?)ようである。

この場所はもともと川の上に崖がせり出す交通の難所で、岩山を削るように道を通したことから「作道(つくりみち)」と呼ばれている。
いま、観音様がいる真上のあたりには、崖が岩陰のようにえぐれたちょっとした平らな土地があり、昭和の中頃まで「作道観音堂」というお堂があった。このお堂は、この地域に伝わる「三原三十四番札所めぐり」の基点になっているほか、馬の安全を祈願するお堂として、明治から昭和10年代まで、毎年1月18日の「初観音」の縁日の日には「御幣を尾につけた裸の馬が、馬主にひかれて観音堂に参詣し、町は賑わった」(長野原町誌)のだそう。
崖っぷちの急坂の先まで、わざわざ馬を引いて上るのも大変だったろうが、おめかしした馬たちが次々と列をなしてお堂を目指す光景を見てみたかったなあと思う。
この観音堂と、今回のバトーさんが直接関係があるかどうかはわからないのだが、位置から考えて、もともと大噴火の年にお堂近くに祀られたものが、いつのことだか崩落して、河原で見つかった(そして引っ張り上げられた)と考えてよいだろう。

この場所の上にあった作道観音堂。堂宇は雲林寺境内に移された。


作道のバトーさんが立つ国道も、ダム建設にともなう道の付け替えで新たなバイパスが作られ、かつての主要街道としての役目は終えつつある。
240年間、3つの顔(+馬の顔)で見つめてきたその目に、いまの谷あいの村の姿はどんなふうに映っているんだろう。


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