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「六里ヶ原」を読む(1) 悲しきほどに遠き草の径

浅間山北麓地域を呼びあらわしたいとき、いまは「浅間高原」「北軽井沢」などを漠然と使い分けているが、ほんとうはもっと古くから親しまれてきた呼称がある。
「六里ヶ原(ろくりがはら)」。
最近では別荘地やドライブインの名前からも消えてしまい、正式な地名でもないため地図にも載らず、聞いたことがないという人も増えているかもしれないが、この呼び名ひとつに、火山のふもとに荒れ地や草はらが広がるばかりだった、開発以前のこの土地”らしさ”が表現されているように思える。

六里とは、一里が約4kmとして、23~4kmほど。一里が人の足で歩いてちょうど1時間ほどと言われるので、六里なら日が出ている時間の半日くらいか。
「六里ヶ原」が正式にどこからどこまでの範囲を示すのか、境界線がはっきり引かれているわけではないけれど、古い地図の表記や、地元に伝えられている感覚では、嬬恋村と長野原町の南半分、標高900~1400mの浅間山の裾野に広がる台地のエリアを指していると言ってよさそうだ。
地図で道筋をたどれば、浅間山の直下の群馬と長野の県境あたりを始まりとすると、その先、大きな街道沿いに宿場町が現れるまでの12~3kmほど。六里どころか、半分の三里あるかないか、の距離ではある。

たび重なる浅間山の噴火で繰り返し噴出したり崩れたりしたことにより作られた、人が住んだり耕作したりするには適さない、不毛地帯。
昭和になって開発されるまでは人家もなく、樹木もまばらで時おりゴツゴツとした溶岩が転がっているような平原が、どこまでもどこまでも続く。
高原なので夏の日中は気持ちがよかっただろうが、冬、道筋が雪に埋もれてしまえば歩くのも難儀な上に、目印もないため遭難の危険もあり、六里ヶ原越えは命がけだったと聞く。
そんなところを歩きで通うしかなかった人たちにとっては、実際には三里ほどの道のりも、倍の六里にも感じられたのかもしれない。

中山道の軽井沢と草津温泉や上州方面を行き来する旅人は、この六里ヶ原を徒歩や馬の背に揺られて渡っていった。
浅間山が目の前にどーんとそびえる以外は、観光名所や歴史の道と呼べるような場所ではなかったはずなのだが、この火山のふもとの茫漠とした草原の風景は、一種独特の非日常感やノスタルジーを想起させるものだったのか…。
何人かの作家や文学者たちが、六里ヶ原に想いを寄せて、文章を残している。

前置きが長くなってしまったが、わたしのつたない紹介よりも、これらの名文から、地図からも記憶からも消えようとしている「六里ヶ原」という地名に刻まれた記憶について書き残しておきたいため、何回かにわけて引用してみようと思う。

まずは、軽井沢の星野で夏を過ごした作家・随筆家の吉田絃二郎の昭和初期の短編から、六里ヶ原の夏と秋の描写。

 信濃沓掛の宿から浅間の根腰を越えて上信の国境に立った旅人は、洞然たる青空の研ぎに研がれたる美しさとともに、そこに展(ひら)かれたる六里ヶ原の草の麗(うるわし)さ、草の広さに魂を撃たるゝであらう。峯の茶屋別去(わかさり)の名に、昔の草津街道の思ひ出をのこす一筋の道は、南より北へと草に入り、草に隠れて六里ヶ原の高原を縫ふ。浅間牧場のほとりに三、四の家を見るほかたゞ草、また草の六里ヶ原に百体の地蔵尊は苔古りて、疲れたる行人に慈眼を垂れ給ふ。浅間葡萄の熟るゝころになれば、鬼押し出しから別去の茶屋あたりへかけて熊の話を聴く。草に臥して空を仰げば海よりも青き空かな、波より白き雲かな。草をくゞるかすかなる水の音あり、青鳩の声あり、白根のいたゞきに日照れり、郭公(ほととぎす)は啼く。寂然として六里ヶ原の日暮る。

 六里ヶ原はまた秋草の高原である。芒(すすき)の高原である。秋ふかく芒の原を横切りて、母馬子馬の群の日も日も里の家に帰りゆくのを見るであらう。ゆるやかなる丘また丘、朝風のごとくゆるやかなる草の原、牧草の山、悲しきほどに遠き草の径、永劫の死、静を抱きつゝ遙かなる六里ヶ原は雲に入りて、鳥低く飛ぶ。

それぞれ『浅間__歴史・文学・地誌』(川崎敏)より


死を連想させるまでの「悲しきほどに遠き草の径」。
六里ヶ原という地名の響きには、いつもどこかこの「静けさ」や「寂しさ」といった感覚がつきまとう。
でもそれは、けしてネガティブな暗いだけの感じではないのだけれど……。
その正体がまだ掴めなくて、いつか掴めるだろうかと思いながら、引用を続けてみる。

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