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「六里ヶ原」を読む(2)詩情はゆたかにまして、高原は緑の化粧をなしていく



こんにちは、進さん。

浅間北麓や吾妻地域の歴史を調べてみようとすると、かならずといっていいほど目の前に立ち現れる人の名前がある。
萩原進(はぎわらすすむ)。大正2年、長野原町応桑生まれ。歴史学者。郷土史家。
浅間山の噴火から、群馬の人物、民俗、風習、政治、芸能まで。
ひとつ気になることがありネット検索すると、参考書として出てくるのは進さん(ここではそう呼ばせてもらう)の著書。また別のテーマが気になり、図書館でキーワード検索すれば、ここでも進さん。古本屋に行っても、はい、こんにちは、やっぱり進さん。いつもいつも、先回りされている。
日本全国、津々浦々、それぞれの地域に「郷土史家」と呼ばれる人がいるのだろうが、これだけ様々な分野にわたり精力的に著述を残した人も珍しいのではないだろうか。


進さんは、北軽井沢のお隣、応桑の出身。教師として県内を転々としたあとは前橋に自宅を構え、応桑に戻ることはなかったのだが、ふるさとに寄せる想いはさすがに強かったよう著書・編書のなかでも、吾妻地域や浅間北麓に関するものがやはり目立つ。
なかでも、まだ20代の頃、初めて1冊の書籍としてまとめたものとされる『浅間山風土記』(煥乎堂、1942年)の序文をあらためて読んでみたら、ふるさと六里ヶ原の戦前の風景が、20代の若者らしい溌剌とした切れ口で綴られている。

そのなかから、前半の早春から若葉の季節までの描写を抜き書きしてみる。

『浅間山風土記』序文より

 標高約三千尺、一千メートルを中心として、東西南北にゆるやかに流れる浅間山の北麓を六里ヶ原という。白樺の葉が、浅間の噴煙に点々として芽吹く頃は、静寂な高原にもようよう春が訪れてきたのである。この頃になると、すすきの芽もそっと枯草の下に平和な春を待ちこがれている。

 時々過ぎる白雲にも、詩の国六里ヶ原の枯淡な味が表れてくる。東には鼻曲山(1654m)角落山(1396m)浅間隠山(1756m)鷹繋山(1431m)寒峰(1473m)の角落山系の山々が、臥した曲線を見せて北に走っている。その先には、上越の国境の山々が、煌めくばかり白々と聳えている。更に眼を西に転ずると、くっきりと草津白根山(2162m)の悠揚なしかれども侵し難い姿が、仄かに立上る火口の噴煙を空にぼかして仰がれる。更に西すると、上信の国境を画する四阿山(2332m)が、ありし日の山岳信仰を物語るかのように、藍色の肌を麓まで露にしている。この四阿山の西壁が、直角に浅間連山と交わる所に、湯ノ丸山(2105m)烏帽子岳(2065m)等の二〇〇〇米級の峰が続いている。六里ヶ原に佇んで、遙かに正面浅間の峰を仰ぐときに、雄大なスケールと、調和を持った枯淡な高原美に、心うたれるであろう。刻々に変わってゆく三面の山々の色は溶岩に腰かけて一日中眺めていても飽きるものではない。よし山を愛する人も、渓谷を愛する人も、一度はこの浅春の六里ヶ原に、ひとりの旅をしてみるとよい。そこには村の子が、長い冬の雪と寒さから開放されて、さんさんと降る太陽の慈光をあびて、日向を見つけては草を摘む姿を見るであろう。六里ヶ原の春を知る者は何といっても里の子である。

 しかし高原の春は遅々として進まない。時々すみれの上に、むごい雪が、水っぽくかかる事さえたびたびである。生を営む草や木は、その自然の仕打にもぐんぐんと伸びてゆく。落葉松の芽、今まで梢がうらさびれて寒々とした木だった落葉松の梢が、ポツリポツリと黒点を増してくると、春も五月に入るのである。梅・桃・桜・すもも等の花が、一時に咲き誇るのもこの頃である。そうした中に詩情は豊かにまして、高原は緑の化粧をなしてゆく。

 今までは黙然として動かなかった六里ヶ原に、あらゆる人と自然が遂に動き出してくる。信濃通いの道も開き山や畑に村人が出て、久し振りに嗅ぐ大地の香りをなつかしんで、ひねもす耕し作る。太陽はさんさんと降り注いで、植物は生々として芽ぐみ、伸び、そして花を開く。

 五月の声をきくと、落葉松や白樺の葉が、目立って青んでくる。すると郭公がなき駒鳥がなき、時鳥が啼いて、胸せまるような若葉の匂いがする。

 農家の障子がいっぱいに押し開かれて、花嫁を迎える騒々しい楽しさの声が、断続して聞こえるのもこの頃である。交通機関のない高原では、花嫁が鈴のついた馬の背にゆられてゆく姿も見られる。皺の深く刻まれた老人が、無限の瞳をこめてぽかりぽかりと消えてゆく白雲を眺めて佇んでいる。今年もまた生きのびて春にめぐりあはした生への喜悦を底深く包んだ哲人のような姿で、大自然の姿をじっと見入っている事もある。

 そうかと思うと若草の燃える広い原を、生まれたばかりの仔馬が、長い脚を思い切り張って、縦横に駆けめぐる。浅間の裾野は馬産地としても特に名高いのである。どの家にも仔馬が母の乳房に吸いついたり跳ねたりしているのが見える。躍動の五月がきたのだ。

『浅間山風土記』口絵写真より

変わったもの、変わらないもの。

このあとも序文は六里ヶ原の夏から秋へと続いていくが、ひとまずここまで。

80年前に書かれた文章だが、さすがは若い頃から文学を志した青年だけあって、春を待ちわびるもどかしさや、新緑とともにすべてがほとばしる、この地域の特性が見事に表現されていて「そうです、そうです、今でもそうです」と頷きたくなる。
人々の生活の部分では、今ではもう見ることのできなくなった風景__嫁入り行列、草原を跳ね回る仔馬、野原で草を摘む里の子たちも・・・?__もあり、80年という歳月の移ろいを感じるのだが、ただ面白いのは、文中に出てくる「今年も生きて春を迎えられた喜びを胸に大自然を見つめる老人」に似たひとは、今でも春、時折見かけることがあるし、そんな台詞を聞くこともある。

そんなところに、一代二代の人の世代の移り変わりでは、大きくは変わらない、変わりようがない、六里ヶ原という土地の持つ懐の深さといおうか、人間による懐柔を許さない頑なさのようなものを感じたりする。

『浅間山風土記』は、浅間山の地理と歴史から、宗教、交通、人物史、習俗と伝説まで、浅間北麓に住むひとにとっては<足もと>を知るための初めの教科書のような本です。増補改訂版も出ていますので、図書館・古書店等で探してみることをお薦めします。

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