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幻の「大草原」。

のっけから家族アルバム写真を載せる失礼をお許しを。
これから、浅間高原という土地の風土や歴史を紹介していこうとするならば、この一枚の写真から始めなくてはならない。

「大草原」の父と私。

アルバムのこのページのタイトルは「9月の大草原」。
母のお腹の様子から見て、弟が生まれる直前の、つまりわたしが丸2歳を迎えた、1975年の秋のことのようである。
「大草原」というのは、私たち家族と、北軽井沢の山荘を共同所有していた伯父・伯母・従兄妹たちが、気に入ってよく散歩に訪れていた山荘近くの草原のこと。
わざわざ「大」草原と名付けたのは、アメリカ開拓地の少女ローラの物語シリーズ『大草原の小さな家』にあやかったものだろうけれど、あながちおおげさな命名でもない。
車道からほんの少し足を踏み入れただけで、まわり一面、背の高いススキなどの草むらに囲まれ、大人でも姿が隠れてしまうほど。
人工物も、人工的な音もなにもなく、遠くに浅間隠しの山並みが見えるほかは、行けども行けども草と野花の迷路。
「草むら」「野原」という規模ではない。あらわすならやはり「大草原」だ。

揺れるススキやエノコログサのなかに、吾亦紅、撫子、女郎花、桔梗、竜胆、野紺菊など、高原の初秋の花が無数に咲いている。
もちろん、眺めていた花と、それらの名前とが一致したのは、だいぶ大人になってからのことだけれど、幼い眼にもその花々の姿かたちはたしかに覚えている。
子どもの手いっぱいに摘んでしまっても、誰も罪悪感を感じないほど、一面の花畑だった。山荘の食卓には、いつもこうして散歩のたびに摘んできた野の花がかわるがわる生けられた。
これらの高原の花は、今でも身近に見ることはあるけれど、数は激減していて、とても無邪気に摘むことなどできない。「来年もどうかここで咲いてね」と祈るように見守るばかり。

さらに晩秋の「大草原」での母。


このアルバムのときから30年が経ち、高原の邑を住処としてしばらくが過ぎた頃、「そういえばあの大草原はどこだったっけ?」と探しに出たことがある。
山荘から細い道を抜け、バンガロー村の脇で車の道を渡った先……。
かろうじて入り口と思われる場所は見つけたが、その先に広がっていたのは、平たくきれいに整地され、隙間なく敷き詰めたマルチシートに整然とレタスの苗が植えられた、広大な畑地だった。
私たちの「大草原」は、跡形もなく消えていた。
考えてみれば当然のことである。今もし、あんな手付かずの土地があったら、我先にと大規模農家がレタスやトウモロコシ用の畑や、牛の飼料用の牧草地にと、トラクターで一瞬で開墾してしまう。無機質なくせにギラギラと存在感の強いにっくきソーラーパネルが並んでいなかっただけ、まだしもましと思うべきだろう。

同じく晩秋の大草原の父。パンタロンが時代を物語る!


そしてその後、消えた大草原のことを思い出すこともなく、さらに20年近くの歳月が過ぎたが、近頃になってまた妙にあの風景がよみがえる。
地域の歴史や風土を調べるうちに、あの「大草原」の存在は、単に私という個人にとって懐かしい心象風景というだけでなく、浅間高原という場所のなりたちを考えるときに忘れてはならない、この土地の<原風景>のようなものだったのではないか、ということに気づき始めた。
今の北軽井沢・浅間高原の、「森の中の別荘地と酪農&高原野菜の産地」というイメージとは少しかけ離れるため、若い人や最近通うようになった人には伝わりにくいかもしれない。
一方で、この場所に古くから住む年配の人にとってかつての草原の風景は、あまりにも身近でありきたりで、耕作不能で生産性のない無価値な土地という認識でしかなかったりする。

どうもこの忘れられようとしている<草原>というキーワードのなかに、山麓の風土や歴史をよりよく知り、これからの地域のランドスケープを考えるヒントが隠されているような気がする。
消えゆく「大草原」の最後の姿を見ることができたひとりとして、この視点で足もとを開いていってみようと思う。

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