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『千葉すず』もっと評価されるべき、過小評価されているスポーツ選手②

前回の記事の続きです。

14.水泳コーチ『バット・マカリスター』

『バット・マカリスター』コーチは、1988年『ソウル・オリンピック』で3つの金メダルを奪った『ジャネット・エヴァンス』をコーチした人物。

『ジャネット・エヴァンス』

1991年 世界選手権自由形400mで、ジャネットと一緒に千葉すずも表彰台に上がったので、
バットは千葉を覚えていた。

15.バットによる千葉の第一印象

『バット・マカリスター』による、『千葉すず』の第一印象

  1. ストロークが素晴らしい

  2. 水を捉えるセンスは天才的

  3. 日本に止まらず、世界でも指折りのストローク

バット・マカリスター:「後になって驚いたのは、(千葉の)バルセロナでの成績が日本では評価されていなかったこと。世界にはオリンピックを目指す人が数えきれないくらいいる。ほとんどの人はそれが夢で終わる。けれどすずは、決勝に進出したスイマーです。これほどの才能に出会えるのは、コーチとしても幸運なことなのです」

1995年 パンパシフィック選手権(アトランタ) 千葉すず:200m自由形=2'00'00(2分フラット)
千葉すず・バット・マカリスターコンビの最初の成果。

しかし翌年のアトランタオリンピックに向け、
千葉すずは、バットではなく、
日本チームとの練習に合流した。

16.1996年『アトランタ・オリンピック』直前の期待値の盛り上がり

「千葉すずは、日本チームとの合同での練習ではなく、
バットのコーチでアメリカで練習を続け、
オリンピック直前に日本チームに合流していたら、
結果は違ったのでは?」

という意見もあります。

1996年『アトランタ・オリンピック』では、
またしても、
千葉すずの日本での前評判は、前回のバルセロナ以上に盛り上がってしまった。

1995年 千葉すずは、アトランタで開催のパンパシフィック水泳選手権で、
200m自由形で金メダルを獲得したため、
翌1996年『アトランタ・オリンピック』の有力優勝候補と目された。

千葉すずだけでなく、アトランタでの『水泳ニッポン』への期待値が高まっていた。
前回のバルセロナでの『岩崎恭子』の奇跡をもう一度見たいという、
国民とマスコミの期待だった。
マスコミは「『水泳ニッポン』によるアトランタでのメダルラッシュ」を期待していた。

実際、
1996年4月 オリンピック選考会では、
千葉は、日本新を連発し、
それらが世界ランキング上位に相当するタイムだった。

17.千葉すず『アトランタ・オリンピック』での成績

しかし『アトランタ・オリンピック』本番では、
千葉は、

  1. 個人種目で決勝に進めず、200m自由形10位、400m自由形13位に終わった。

  2. メドレーリレーでも予選落ち

  3. 『バルセロナ・オリンピック』での、自身の成績を下回った。

  4. 新種目800mフリーリレーでアンカーを務めたが、4位入賞に留まって、メダル獲得はならなかった。

18.『ニュースステーション』衛星中継インタビュー

『千葉すず』は、『アトランタ・オリンピック』事前の取材にて、
千葉すず:「オリンピックを楽しみたい」
この発言が、のちに物議を醸す端緒となる。

『アトランタ・オリンピック』競泳競技終了後、

※この画像は、のちに『久米宏』のラジオ番組に出演した時。

1996年7月26日『ニュースステーション』
衛星中継を通じて、
キャスター『久米宏』のインタビューに、
他のメンバーと一緒に『千葉すず』も出演。

この時の『千葉すず』の発言

  1. 「実際にやってみてください、皆さん」

  2. 「そんなにメダル、メダルと言うんだったら、自分で泳いでみればいいじゃないですか」

  3. 「日本の人はメダル気違いですよ」

という趣旨の発言をして論議を呼んだ。

19.『ニュースステーション』インタビュー後のバッシング

テレビを通じてのこれらの発言が、
『日本国民』の気持ちを逆撫でした。
放送禁止用語も含まれている。
本人も言う通り、今のようなSNSの発達した時代だったら、
大炎上していたはず。

そしてちょうど、アトランタでの日本水泳選手陣の期待はずれの結果に、
マスコミは『戦犯』と言う獲物を探していた。
その結果『千葉すず』は、
国民とマスコミから、

  1. 税金泥棒

  2. 親の顔が見たい

  3. メダルなしの反省がない

そんな批判を、一身に浴びる結果となった。

20.最も議論された「オリンピックを楽しみたい」発言

批判の中では、オリンピック開催前の千葉の発言、
「オリンピックを楽しみたい」
が曲解された上での批判が目立った。

  1. 「楽しみたいとか言ってるから勝てなかったんだ」

  2. 「アトランタに観光気分で行ったのか?」

要するに、

  1. 「勝つ気がなかったのでは?」

  2. 「オリンピックに真剣に取り組んでなかった」

と言う批判。

これほどの練習量と、
数々の記録保持者が、
勝つ気がないわけがない。

21.「オリンピックを楽しみたい」発言の真意

※2013年TBS『NEWS23』での『ウサイン・ボルト』X『桐生祥秀』の対談で、ボルト選手が桐生選手だけでなく、日本のオリンピック選手に向けて送ったメッセージ
ウサイン・ボルト:「いいか桐生、自分のために走れ。
それが国のためになればいい。
まずは『自分のために走る』
そして『楽しむ』
それが日本のためになるんだ。
決して国のためだけに走ってはだめだ。
楽しもう。スポーツは楽しむものだ」

事前に千葉が言っていた、「オリンピックを楽しみたい」は、
千葉が日本代表選手たちのキャプテンとして、当時の日本水泳界に蔓延していた、

  1. 4時間泳ぎ続けるといった、根性論的な厳しい練習や、

  2. 日本の体育会系的なコーチと選手での、また選手間での上下関係。

などといったプレッシャーに潰されないように。

また、メダルや周囲の評価よりも、
まず、自分自身が水泳を楽しむこと。
結果はどうであれ、
「一切手は抜いていないし、楽しかった」
と、顔を上げて言えるようにと、
後輩たちに教えたつもりだった。

22.アトランタ・オリンピックで過度の期待が選手たちに与えたプレッシャーの実態

しかし実際には、
マスコミが与えた過剰な期待が、
コーチ陣に影響し、
その結果、コーチはオーバーペースな練習を、
選手たちに課してしまう。
選手たちはオーバーペースな練習だけでなく、
自由時間まで監督されていた。
その姿勢がいつからか、プレッシャーに形を変え、
チームを蝕んでいった。

そんな状況の中での、
日本代表チームと一緒に楽しい雰囲気でオリンピックに臨みたい
と言う、
日本代表チームキャプテン『千葉すず』の意志にすぎない。

23.有森裕子「自分で自分を褒めたい」

同じ『アトランタ・オリンピック』女子マラソンで銅メダルだった、
『有森裕子』の名言

有森裕子:「メダルの色は、銅かもしれませんけれども……、
終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、
今回はそう思っていないし……、
初めて自分で自分をほめたいと思います」

24.『アトランタ・オリンピック』以後

テレビのニュース番組での発言以降、
千葉本人も泳ぐ気力を無くした。

1997年1月『千葉すず』引退を発表
⇨アメリカ永住権獲得。

彼女は引退後、『バット・マカリスター』から、
「ゴールデンウェストスイミングクラブのチビッ子クラスを教えてくれないか」
と頼まれ、それを引き受ける。
以降2年間、チビッ子クラスを指導。

その間、同じスイミングクラブの同僚コーチに、
「すず、200のフリーの記録はあんまり伸びていないから、
君には絶対チャンスがある。
なんで泳がないんだ?」
と、しつこく言われているうちに、
本人もその気になってきた。

25.再びオリンピックを目指す

千葉は、次回開催2000年の『シドニー・オリンピック』出場を目指して、
今度は『バット・マカリスター』にしっかりコーチを受けた。

1999年6月 千葉は3年ぶりに日本選手権に出場し、
またしても、
100m・200m自由形⇨当時の日本新記録を更新

26.2000年『シドニー・オリンピック』日本代表落選

その頃バットは、カナダのスイミングスクールに移籍し、
それに合わせて、
千葉も拠点をカナダ・トロントに移した。

2000年 第76回日本選手権に出場(シドニーオリンピック競泳日本代表選考)

千葉は、『国際水泳連盟』(FINA)が指定する、
五輪A標準記録2'00'54を突破して、
200m自由形で優勝した。

しかし彼女は、
シドニー・オリンピック代表には選出されず落選となった。

※次回の記事に続きます。

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